(JR九州のウェブサイトより、日南線)
串間市は宮崎県の南端の市。
日南線「串間駅」が市のメインステーション(であるように思う)。
そんな串間に45年ぶり(!)くらいで行かねばならない用件が出来たのは、2022年秋のこと。
そろそろ来る事態だと覚悟はしていたので、驚きはなかった。
ただ、あまりに遠く、なじみのない場所であった。淡々と、羽田から宮崎空港までの便および宮崎空港からのアクセスを調べた。
いつもながら飛行機代の高さとその価格の変動ぶりには驚くのだが、羽田―宮崎空港の間の便は、もっとも安いものでも片道1万5千円くらいであった。なお、自分が飛行機を選ぶ時の基準は価格である。
行きは、以下のように、「ソラシドエア SNA051便」に乗ることになった。
6時50分離陸。ずいぶん早朝。
だけどわたしは大田区民。羽田空港までのアクセスは他の人より良いはずなので、我慢しようと自分に言い聞かせる。
羽田空港までどのように行こう?家から徒歩15分程度のところに空港リムジンのバス停があり、それに乗ってゆこう・・・と思っていたが、ふと気づいた。「東急の蒲田駅まで電車で行き、京急蒲田まで歩き」、京急で空港に行く方が「安くて早い」ということに。
なお、東急・JR蒲田駅前からは空港行きのリムジンもあり便利である、が、安いというわけではないので、今回の選択肢からは外れた。
◆
上の、大きな文字にした「東急・JR蒲田駅」から「京急蒲田」までの約800メートルの距離を結ぼうというのが、いわゆる「蒲蒲線」である。
www.city.ota.tokyo.jp
大田区の悲願といわれ、東急も乗り気の計画。東急多摩川線を地下化して京急蒲田につなぐという案で進められている。だから「蒲々線」ではなく「蒲蒲線」と書くのだろう・・・「この蒲とその蒲は同じ蒲ではないのだ」という意味付けのために。
2023年4月、区長選があった。
4期つとめた松原忠義区長が勇退を発表し、新人3名が挑んだ。
賛成(継承)派の鈴木氏と慎重派の2名が立候補し、賛成(継承)派の鈴木氏が僅差で当選した。
区民の半数以上は慎重派であることもうかがえた区長選であったが、鈴木氏の勝利により、蒲蒲線はこのまま進んでゆくのであろうと思われた。
しかし実現するにしても数年以上は先の話であり、現時点では東急・JR蒲田から京急蒲田までは歩かねばならない。
◆
朝まだき。
飛行機に乗り遅れたら大変なので、
スマホ2台のアラームをかけ、朝は4時40分にちゃんと起きられた。冬に近づく季節の4時台は、いちばん深い闇の色をしている。
12月。夜明け前の旅立ち。静謐な地上駅に、ことさら静かな音を立てながら短い編成の列車が来る。
夜明け前の列車はすいているが、思いのほか高齢者が多かった。働く高齢者であろうか。
どこへ。どこへ。高齢者たちは、ここからどこへ。
そして一駅、東急蒲田で降りて、京急蒲田へ、歩く道。
800メートルの、欲と悲しみの経路。
・・・そこのお兄さん、居酒屋 カラオケ いかが?
さっきまで呼び込みの声がにぎやかだったであろう繁華街も夜明け前はシャッターに囲まれて、欲のなきがらを詰め込んだゴミ袋だけが転がっている。猫も寝ている夜明け前の蒲田。
ガラガラ・・・ガラガラ・・・
京急空港線に向かう人がカートを引きながら蟻のように行列する。
わたしもそのひとりである。
知らない人であるが、同じ目的地に向かうことは明らかであり、どこか親近感を覚えつつ、眠っている「あすと商店街」を、みんなでゴロゴロ、みんなでゴロゴロ。
飛行機までの、少しのつなぎ目を渡る旅人の群れ。
こんな風景も、
蒲蒲線が出来たら、見られなくなってしまうだろう。
ソラシドエアは第2ターミナルにあるので、第2
ターミナル駅で降りる。
時計が朝の6時1分をさす。
眠い。
羽田空港は早朝でもそれなりの賑わいがあった。特に、北陸新幹線が福井にゆくということで大きなキャンペーンを張っていたので、しみじみと見入ってしまった。
よく考えたら、新幹線は空港のライバル。
ここにこうした広告を張ることは、移動する人へのアピールとして効果的であろう。
そして、わたしはやはり鉄道のほうが好きだな・・・できれば飛行機ではなく鉄道に乗りたい・・・そんなことを思う。
恐竜で町おこし?福井の駅員キャラたち。
制服を着こなしているがどうなっているのか物理的によくわからん・・・。
コロナ禍もおさまり、だいぶ飛行機も復活してきた。
こんな朝早くに、北へ南へ向かう飛行機がたくさん出ていることを知った。
早起きでぼんやりした頭で保安所へ。
安全検査で指摘されたのは・・・なぜそんなに詰め込んだのかと思うのだが、モバイルバッテリー、4個。
確かに、結果的にはひとつでよかった。
そして、いつも持ち歩いているポーチに入れていたかわいい鋏がまたしても没収された。ああ、いつも預けるのを忘れてしまい、没収される、かわいい鋏。じっと手をみる、こんなちんまりした手で、こんなかわいい鋏で、何も危険なことはできそうにないのだが、決まりなので仕方がない。だが、すこし悔しい。
羽田空港の裏手には、没収された鋏の塚が出来ているに違いない。
荷物をゴロゴロ引いて500番出口を抜けると、そこには飛行機ではなくバスが待っていた。ソラシドエア―はバスに乗って搭乗することが多い。意外と混雑したバスに乗って数分。小さめにみえる飛行機のなかに乗り込む。座席は比較的前方。
ゆっくりと飛行機が動き出す。わりと混んでおり、狭苦しい。低血圧の自分が慣れない早起きをして、どこかけだるい気分の朝。
離陸までの徐行の数分間、あいつがやってくる。持病の閉所恐怖がやってくる。同じ病を持つ方であればわかってもらえそうだが、こういうときの精神というものは本当にどうしようもないものだ。抑える間もなく何かが飛躍して恐怖を先取りして、震えが訪れ、わけがわからない。やけに冷静な自分がそこにはいて、このことにはなんの根拠もなく、わけがわからず、到着してしまえば笑い話であることも了解しているのに、それでも圧倒的な何かに包み込まれる自分が飛行機のなかにいるのを飛行機の外からぼんやり見ているような自分を感じる・・・今こうして自分の部屋でそれを思い出して書いてもあの気分には届かないのだが・・・そしてそれが服薬によって直るのも了解しているし、何なら服薬しなくてもたぶん収まることも了解している、松岡先生の授業でもそう言った・・・。だが今回のそれは少し程度が強い気がした・・・朝は苦手すぎるし、あー、やだやだ、離陸前の飛行機内はいちばん苦手・・・BZP系の薬物も持ってはいたが、とりあえずなんか飲もうということで、頭痛薬を飲んだ。そして小さな飛行機が離陸すると、自分のなかのそれはいつも収まるのであった。ふわー、ふわー、身体への直接的なGの刺激が、いわゆる
パニック発作を止めてくれるような印象。どうしてこんなにバカなんだろう、わたしの身体というものは。
◆
実母(千葉県いすみ郡出身)は飛行機が苦手であった。小学生の数年間、われわれ一家は
ジャカルタに住んでおり、日本と
ジャカルタを行ったり来たりしたが、わたしとよく似た母は機内でいつも具合が悪くなった。
母もわたしと同様、乗り物に酔いやすいということもあろうが、閉所恐怖、
パニック発作もあったのかもしれない・・・なぜなら、母方の叔父も高速道路が苦手ときいて・・・そういう、神経質で不安の強い気質が似ているのではないかと推察したのである。
追憶に浸りながら、少しだけコーヒーを飲んだ。もう何も怖いものはなかった。少し寝ようかと目を閉じているうちに着陸態勢に入り、飛行機はあっという間に
宮崎空港に到着した。
・・・このときは秋の台風の影響で、日南線の南郷ー志布志間は不通となっていた。
(註:2023年3月15日に全線復旧したそうだ)
よって、南郷から先は代行バスに乗ることになる。
結果的には「宮崎空港」ー「油津」までは列車で、「油津」から「串間」までは代行バスで向かうことになった。
それにしても都民のわたしは知らなかった・・・・9月にすごい台風が来て、それで電車が不通になったということを。ニュース映像をみると、南九州特有のシラス台地が崩落しやすさにつながっているのではないかという声もあった。地質が違うのかと、それも新たな発見であった。
父の故郷・九州はあまりに遠くなってしまい、宮崎空港から先の鉄道路線がいまいちわからない。事前に兄がいろいろ調べて薦めてくれたとおり、タクシーに乗って、ひとまず最寄りの「田吉」という駅に向かうことにした。
田吉駅は、田園にたたずむ島式ホームの小さな駅であった。ビニールハウスがぎらりと輝いていた。
南方らしく草原のあちこちにヤシの木が並ぶ風景。新鮮な空気を吸い込む。宮崎ではあるが意外に寒い。飛行機の鈍い飛翔音がひっきりなしに降る駅からはビニールハウスとコスモス畑がみえる。鳥の鳴き声がひっきりなしに響く。
最初、駅にも周辺にも誰もいないので、本当に列車が来る駅なのだろうかと心配になったが、しだいにだんだん人が集まってきた。なぜか比較的
若い女性ばかりだった。
やがて大きなカラスが、つややかな背中を見せながら、ふわりと線路に乗った。
都会と比べて食べ物は多いのだろうか?
カラスの黒い翼に誘われるように延岡行きの列車が来た。
延岡は北の方向なので、逆だ。この列車に乗ってはいけない。
そしてもう1台、白い列車がやってきた。そういえば単線
区間であり、この
田吉駅ですれ違うのだろう。
延岡ゆきの列車の扉から濃い顔立ちの運転士が顔を出したので、「串間行きはこれではないですよね・・・?」といちおう確認した。すると、「串間・・・」、運転士の眼鏡の奥の目が心配そうな色をみせ、何ごとか確認のあと、白い列車に乗るようにわたしに指示した。
そのとき、なじみのない
鉄道員の制服のイメージがふわっとこの身に押し寄せた。ああ、これが、
JR九州の制服か、近未来感のあるその制服には不思議なラインが引かれている(←とメモにあるが、何のことだろう・・・)運転士の身体から漂うものは不思議な柔らかみと宇宙の広がり。
鉄道員が見慣れない制服を着ていると、遠くに来たことを実感する。
ひとまず串間方面まで向かう列車に乗れて、ほっとした。
日南線の列車の真ん中付近、トイレの真横の
クロスシートに陣取って、ここから先はパラダイス。タイムマシーンに乗って日差しの海へ、ガコンガコン。
九州だから暖かいというわけにはいかず、少し寒い日だった。
すぐに、ガッコン、ガッコンと体が上下するのを感じた。
なんて激しい揺れだろう。体が上下に踊らされるのを感じるが、それが気持ちよい。
椰子の隊列が「ようこそ宮崎へ」と出迎える
背の高い絵筆となって空に雲の絵を描く。
孤独な長身の椰子たちは互いに触れられないが見つめることで仲間と風の会話を交わす。
「運動公園」という名の駅に停まった。
この駅の遠景は何か自分の原風景を感じさせた。
波はいつまでも打ち寄せる
青島街道に沿って 太陽がやっと目覚める
しだいに晴れてきた空のもと、咲く花の黄色が勢いを増す
ガコン ガコン ガコン
日南線の窓から見える光
父の故郷は父のような風が吹く
やさしい湾の終わらない白波
バシバシと窓を叩く枝木、窓は閉まっているのに思わず顔をしかめてしまう
よく伸びた木々の枝がたくましく電車の窓や車体を叩いてゆく
植物の成長は早すぎて人間のいとなみをやすやすと超えてゆく
生きた林の手先をすりぬけ白い列車もいさましく走る
南へ
南へ
串間へ!
下の写真、ソテツの葉っぱがブワンブワン!
そうなのだ、これが九州という感じなのだ。
列車に揺さぶられながらだんだん無心になってゆく自分に気づく。最近、飛び込んでくる情報が多すぎて疲弊していた。こちらの何かを利用しようと近づいてくるメッセージが山のように届き、アンテナを張っている触角に火をつけられ、加速し、燃え尽きて、崩壊するような日々であった。何も考えず、
日南線に揺られていたい。いや、トイレに行きたい。
むかしは列車のトイレも穴があいているだけで線路が見えたなぁと思いつつ、さすがに今はそんなトイレではなかったが、用をたすことができた。
旅に出るとトイレが使えるときには使うものだという習性が身についた。
難しい駅名が飛び込んできた
新しい街には新しく覚える街の名前がある。だけど歴史ある地名らしい。
そして、ガコンガコンと揺れながら、白い列車は「油津(あぶらつ)」という駅に到着した。
ここから日南線代行バスに乗り換えるのがよさそうである。
下車して少し待つ。
それにしても油津という駅名のコッテリした印象よ。
Avuratsu(アヴラツ)と呼ぶことにしよう。
アヴラツ駅は広島カープのキャンプ地らしく、赤一色のカープ駅であった。
日南市観光キャ
ラクターは、禿頭のおっちゃんだった。
頭頂に華やかなピンクの花を咲かせている。
わたしがここに来る理由となった人にも似た笑顔であった。九州のおぢちゃんの優しさは海のようだと思う。
それにしても「
代行バス」、またこの響きをきいた。最近、
代行バスが多くないか・・・。
(以下の1年前の記事の最後に
代行バスの詞を掲載しました)
鉄道がスムーズに走らないこともあるのは、現代の常識なのかもしれない。
それでも
代行バスがあることは、2つの地点を結ぶ、ありがたいことなのであった。
ここは赤い駅。アヴラツ駅。
にちなんぢゃ様と対話しながら
油津駅で待っていたところ、11時ごろバスが来た。
「油津から串間まで」と告げると
「660円です」高齢の運転手が静かにうなずく。
わたしだけなのか・・・・
ということは、わたしが乗らなかったら、空気を運ぶことになったのだろうか・・・。
地方都市における公共輸送の限界を少し感じ、だからこそこのバスに乗れる希少な幸福をありがたく思った。
ドルルル。
わたしだけを乗せたバスがゆるやかに発車する。
少し眠気がやってくる。
やがて通りがかった
南郷駅はライオンズのキャンプ地のようであった。スポーツニュースで「宮崎キャンプ」という言葉を何気なく聞いていたが、こんなふうに地元では野球チームが歓迎され大切にされているのだと実感する。
バスが曇天の下を南下する。風景に、人間の姿が少ない。
日差しがガンガン入ってくる車内は暖かであった。この旅が夏でなくて、よかったのかもしれない。
うすぼんやりした思考の奥で難しいことを思う・・・日本の
交通機関は携帯電話での通話を禁じているけれど、土地勘のない場所で、あるいは交通が便利でもない場所で、友人とかでない知人との連絡が大事なときがある・・・心身に障害のある人こそ、 慣れない移動のさいには通話できることが助けになるだろう・・・だから
交通機関内での携帯電話での通話はOKになってほしいと・・・誰もいないバスの中で考えたのだ。
波はいつまでも打ち寄せる。
先に述べた福島の「富岡ー浪江間
代行バス」の車窓には壊れかけた店舗の風景がみえて切なくなったが、それは日本の地方都市によくみられる風景でもあった。
原発事故がなかったとしても、この九州でも壊れかけの店舗や家がそのままになっていることは珍しくないのだ。そしてそれはもはや、
他人事ではないのだ。
人の営みは途切れても 草の成長はとまらず 木々はその背丈を伸ばし 波はいつまでも打ち寄せる。人間は苦労して自然のなかでやっとのことで生かされている。危ない橋を渡っている。
◆
うたたねのバスの旅、気づいたら串間にいた。
朝いちで都内を出発し、昼の12時ごろに到着できたのであった。
45年ぶりの串間は・・・ああ、こんな駅前だったでしょうか。
何もない、わけではない駅前。
そこからのことは以下の記事にも書いた。
ekiin.hatenablog.com
滞在時のことは省略する。
以下は東京に戻ったときの記録をのこす。
◆
串間駅のそばには立派な「道の駅」があり、休憩したりトイレに行ったり軽食をいただいたりできる。とても役立つ場所であり、お気に入りの場所となった。
東京に帰る日も、道の駅のベンチに座り、代行バスを待ちながら持ってきたパンで栄養を補給した。
大きな街の駅の建物のなかに、机と椅子を備え付けた開放的な広い空間がある。小学生か、中学生か、学年の違う3人の女の子が並んでおしゃべりをしながら勉強している。わたしのほかにはあまり人間のいない空間で、そんなふうにおしゃべりをしながら(もちろん無料で)ノートを広げられる場所があることが、豊かであるということかもしれない。
さよなら串間。
森と同化した線路の鉄橋の下をくぐるとき、不通となっている
日南線の不在を思い、列車が通らなくなった線路付近があっという間に濃い森に変わってゆく自然の脅威を背中に感じた。そんな自然のなか、やっとのことで生活は成り立つ。
人間は苦労して自然のなかでやっとのことで生かされている。危ない橋を渡っている。(←2度目)
東京よりも遅い日暮れ。
南郷に到着した頃には、空が夕焼けで燃えさかり、雲が不思議な模様を描いていた。
車内は暖房がよくきいており、ガッコンガッコンと相変わらず気持ちの良い揺れに包まれ、思わず寝てしまった。
気づくとまわりの乗客もみな寝ていた。
窓の外はとっぷりと暮れ、岬にともる明かりがゆらゆらとその生存を示していた。
優等列車らしく青島までは通過する、その長い駅間、暮れる車窓に目を凝らす。光が無いと何も見えないとき、心の視覚を使う。夜になっても波は打ち寄せていることや、そこに生きている自然が存在していることが、恐怖と希望の両面をもった
リバーシブルな仮面のように迫ってくる。こんな自然のなかに溶け込んで生きることができたら、それは幸せであろうか、森に暮らすニンゲンになるのは、どうだろうか、と、妄想に入り込むわたしの脳裏に、若い運転士がときおり鳴らす警笛が響き、現実に戻る。
日南駅を過ぎたあたりで列車は混んできた。
旅の新鮮な風景が日常になれば旅は終わりだ、お別れだ。
◆
最後に立ち寄った
南宮崎駅は、想像以上に大きな駅だった。
やはり格調高く、かっこいい列車である。
静かに滑り込んできた「にちりん特急」はグレ
イカラーが堂々たる特急列車であった。
南宮崎から空港まで、自由席なら乗車券でOKらしいのでほっとして乗り込む。
遠くに旅をしているとき、帰りの飛行機に乗るための空港に到着できると、ほっと安心する。
この時も、にちりん号の通路に佇みながら、旅が終わったかのように
疲労しつつも安心して、短い宮崎の旅を反芻していた。
すっかり宮崎の交通に詳しくなった気持ちになり、さあ、
宮崎空港に到着だ。
からくり人形が旅人を出迎える。
ゆっくり空港を楽しむ間もなく
宮崎空港の保安所に向かう。
この地で買ったハサミはなんとか預けられたのだが、モバイルバッテリーを預けることができないので、重たいモバイルバッテリーを担ぎつつ、お土産を買う。
帰りは
ANAだった。片道25360円。宮崎から東京に向かう最終便である。
しかしアクシデントが起こる。
22時羽田到着のつもりでいたが、どうやら飛行機が遅延しているらしい。
案内板をみれば、20:20発の予定が21:50発となっている。
1時間30分の遅れか。
羽田空港には23時半の到着を予定しているとのアナウンスに、待っている乗客がざわざわと動揺する。
最終便で東京に向かう人は多く、スーツ姿の人々がざわめきながら、サンドイッチを食べている。わたしもなんか食べたい・・・そう思って売店にゆくが、夕食になりそうな品物はすでに売り切れとなっていた。
おにぎり、サンドイッチ・・・そんなものはすでになく、箱に入ったきらびやかなお菓子やお土産が売られているだけだった。
そのとき、<ANA618便ご搭乗のお客様にご案内します・・・>とANAからのアナウンスが入った。
遅延への謝罪のあと、「お食事券をお出しします」とのことであった。
すぐに長い行列ができ、わたしもその列に並んでみると、女性の職員が頭を下げながら茶封筒をうやうやしく差し出した。このなかにお食事券が入っているのかと思って封筒を開けてみると、そこには日本銀行の1000円札が入っていた。
せっかくなのでお食事券を使おうと思って売店をめぐったが、もう食料はスナックくらいしか売っていなかった。
夕食用に、おつまみ鶏皮スナックを購入した。
「これ、夕食」
兄や姉にラインで連絡をしながら、鶏皮スナックをぼりぼりかじった。
そんな夕食は、すぐに食べ終わってしまった。
毎晩、英会話をやっており、この日の夜間も英会話の予定を入れていたが、仕方なくキャンセルした。強迫的な自分は英会話レッスンが途切れてしまうことに抵抗があったが、このままでは日付が変わってからの帰宅になると思われ、どう考えても時間が取れなかった。
夜のガラスに映る自分の顔がやつれて、ずいぶんすさんでいる。
ガサガサの指先。重たい荷物。ぼさぼさの髪。宿題が増えた生徒のような重たい顔、あるいは人間の世界から離れつつあるような遠い顔をしている。
あとでたくさんご飯を食べて、少しだけ人間の世界に戻らなくては・・・そんなことを考えていた。
やっぱり、人間界を離れては生きられそうにない。
◆
そんなわけで日付を超えて自宅に戻った冬の旅は終わった。
だがそれはあるひとつのプロジェクトの始まりであり、これから何度か行くことになるだろうと思われた。
あとから知ったことだが、鹿児島空港にゆく飛行機のほうがはるかに安価に購入できることがあるのだった。
・・・よし、次回は、鹿児島空港から行こう。
そう決意した。
そして数日後、宅急便でお土産が何箱も届けられた。
(続く)
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◆松岡宮からのお知らせ
◆ライブ!
5月21日(日)デザフェスの「パフォーマンスエリア」ライブ出演します。
ビッグサイト南館4階です。
(↓)前後の方々も面白そうで、楽しみです。
がんばるぞー。
メロンブックスさんといえば萌え系のかわいい女の子の本が買える場所・・・。
そんな中に場違いと思いますがCD販売していただいております。
よかったら、ご覧くださいませ。
https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1859970
◆新作をたくさん書いています
主にYoutubeショートなどに、短い新作をバンバン書いています。
早く作るのも、訓練だと思って・・・。
www.youtube.com
他人の詩に曲をつけることも、少し、開始しています。
自分の製作技術が人のためになると思うと、嬉しいですね。
これからも皆様に愛される作品を書き続けてまいりたいと思います。
記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。