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【串間シリーズのあらすじ】
独身だった叔父が死んで空き家になった父の実家の片づけをなぜかわたしがすることになった。
そこには小さな平屋が2つあり、ひとつは崩壊寸前、もうひとつはそこまで劣化していないものの、中はごみの山で汚れた衣類や猫の死体があるなどひどい状態であった。
2度の串間の旅で、ひとまずアルバムなど大事なものは東京に持ってきた。
(なお、このブログの記事は創作部分もあり、すべてが実話ではない。)
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九州の蜘蛛はたくましい・・・。
この記事では3度目の串間の旅について書こうと思うのだが、2度目と3度目の旅のあいだにいろいろな出来事があった。
まず相続関係について、司法書士さんが、その土地の登記情報と、相続人関係図を送ってくれた。
登記に関しては「共有者」「差押」などの文字もみえ、素人の自分には相続することがとてもおそろしく思えた。
相続人に関しては、しばしばいわれるように、関係の少ない(あるいはほぼ知らない)方の名もあった。それらの方にも相続する権利はあり、相続したいかどうか、意向を問わねばならないと言われた。司法書士さんが遺族代表のわたしにそれぞれの方の住所を教えてくれるので、わたしが郵便物を作ることになった。
会ったこともない親戚。
ある日受け取る、知らない人からの相続の手紙。
それらの方については寝耳に水、「あんただれや?詐欺?」という郵便物になるだろう・・・そう思われないようにしなくては・・・。
郵便物を作り上げるのにかなり時間を要した。
文章は丁寧に、そして現地の写真を添えて、「串間の実家がこんなふうに崩壊寸前なのですが、相続のお気持ちはどうでしょうか?」という郵便を作り上げ、送った。
ほどなく郵便を送ったすべての方より、お電話をいただいた。
みなさん、常識と礼節のある方々で、その点は恵まれていた。
とくに小さい頃、お葬式で会ったきりのいとこのお姉さんからのお電話には、懐かしさで胸がじーんとした・・・。気づかいのある声と話しぶり。素敵な思い出が蘇る。
このいとこと没交渉だった理由の一つは父親同士の不仲のせいではないかと疑っている。せっかくきょうだい関係に生まれたのだから、不仲になるのは勿体ないなぁ、きょうだいって助け合うことができ、支えになってくれることもあるし、有難い存在だなぁと思いつつ、浮かれたわたしは「うちの兄貴、独身なんですよ・・・」などとつまらぬことを言った。
◆
結果的に、いとこのみなさんの意向は「相続放棄」であることを確認できた。
わたしの兄と姉の意向も聞かねばならない。共同で相続するという意見もあったからだ。グループラインでたずねてみると、ふたりともあっさり「相続放棄してもよい」とのこと。
そして同時に、実はわたしも相続放棄したかった。
叔父は商売を引き継いでいた代表取締役だったことを思い出し、登記の「差押」の文字を見て不安になってしまったのだ。
しかし司法書士さんが言った。
「こうして関わっているあなたひとりが相続人になるのが望ましいです」
と・・・
・・・うーむ、借金があったら・・・自分がかぶるしかないのかなぁ・・・。
お金のことがあまりわからず、区の弁護士相談に行ったりしつつ、だんだんと、もうこれは自分が相続するしか仕方がないのかな・・・と覚悟をきめた。
◆
3度目の旅の前に、家屋の撤去などを地元の業者に相談してみたところ、たいへん親切に対応してくれた。
「現地を見学したい」というので、「ドア壊れてますので、勝手にどうぞお入りください」と住所を案内したら、すぐに見に行ってくれたようだった。そして見積もりを作成してくれたが、それは予想通りの高額であった。足場を組んだり、通行止めにしたりする必要があるとのことで、それでも良心的な額だったのかもしれない。
お金がすべてではない。先祖代々の土地を守り、近所をリスクから守る、意味のある工事なのだと自分に言い聞かせる。そう、すべてはギフトなんだと思うことにしたじゃないか。
相続というのは、今や、お片付けの費用が発生する貧乏くじイベントとなる場合が多いのではないか。土地だけならともかく、その上には片付けの必要な「お荷物」がのっかっていることが多く、一時的に数百万の費用がかかる。そこに住んでいれば少しずつ片付けたり修繕したりできるのだが、いきなり遠くの壊れそうな家を相続するなんて、お金も手間もかかり、誰もそんな相続は選ばないのだろう・・・そんな現状を、わがこととして理解できた。
(↓)やけになって「負け動産のソーゾクニン♪」という歌をつくりました。
なんで自分だけこんなことしているんだろう?
自分は、自他境界があいまいで、ものごとに適度な距離をおけず、ひとのことを自分のことみたいに考えてしまう・・・できもしないことに口をつっこんでしまい、結局仕事が増えることが多い・・・
・・・2017年の父の葬儀に、ものすごく遠いなか、やっとの思いで来てくれた叔父の丸い背中を思い出し・・・それからすぐに認知症になってしまった叔父の親族連絡先になったときからこうなる運命だったのか?
でもきっとそれをしなかったら、もっと思い残しもあっただろう。すべて自分が選んだことではある。わたしにはローンがないのでひとまずの出費が出しやすい側面もあろう。しかし、わずかな蓄えの老後資金が減ってゆく・・・。
・・・勇気を出して、兄や姉に、「よかったらわたしのCD買って聴いてくれたらうれしい」と言ってみた。
しかし、その言葉はスルーされ、CDが聴かれることはなかった。
(;;)
夫が言った。
「聴いてください、買ってくださいというとダメなんだよ、相手を責めてるみたいに聞こえるから。」
・・・それなら、黙っていたら音源を買って聴いて貰えるのだろうか?
・・・落ちる気分をなんとか持ち上げ、頼まれるままに普通に仕事をし、デザフェスとクロコダイルで普通にしっかりとライブを行い、普通にたくさん音楽作品を作り、普通に働いた。しかし今もずっと消化器に小石が詰まった感じがあり、全体的に食欲がない。第1回の旅で道路の管に落とした小石がこちらに巡ってきたのか、いやはや宮崎の小石が体内にあるのか。
ときには(しばしば)数少ない信頼できる人たちの優しさに救われる、綱渡りの日々。
・・・気づくと夫がわたしのCDを買って自分の部屋でずっとプレイしてくれていた。
わざわざどこかのCDショップで買ってくれたようである。
そして、君の作品は面白い面白いと言ってくれた。
◆
春ごろ、わたしが正式に相続人となった。
相続人となることが決まり、権利書とともに、各相続人に関する分厚い相続関係書類も送られてきた。
持ってきたアルバムや書類を参照するうち、祖父や祖母の生年月日、兄妹構成などを知ることができ、また、若い頃の祖父や祖母の顔を認識できるようになった。
◆
祖父は明治37年(1904年)生まれ、末っ子だったようだ。
わたしにとっては普通の「おじいさん」だった祖父だが、若い頃、ダンディなマスクであったことを知った。
昭和2年、23歳かな。
どの写真も優しげな雰囲気を持っており、
ときにはイカしたコートでポーズをとりながら写真に収まっていた(左)。
「おお、おれをよく見つけてくれた、さすが、わが孫だ」
若い頃のおじいさんの写真のまなざしが、わたしの努力をみとめてくれているように感じた。
報われたと感じた。
いや、報われたと、感じたかったのだ。はるかな旅路の、疲労の脳裏に。
(調子にのっておじいちゃんの写真で曲を書いた。)
一方、祖母はお手紙などを読む限りクレバーな方だという印象があった。
たぶんこれが祖母だろうなと思う写真は以下の1枚であったが、聡明そうな雰囲気である。
・・・この間の高円寺フリマのときのわたしの服装と似ている。
知らずに祖母をなぞっていたのか?
ありがちな服装なのかもしれないが・・・。
◆
戸籍を読んでいてわかることがある。例えば、祖父母の結婚はどうやら、長男である父の「授かり婚」だったらしい。
また、祖母の父が村長になったことがあったと聞いたことがあったので、その正式名を検索したところ資料があるようだったので、その書類のコピーを国会図書館に求めたりした。そこには顔写真とともに人情に篤い村長であったと書いてあった。
西南戦争のことが書いてあり、自分は歴史や父の故郷について何も知らなかったのだなと思った。
◆
そして、うすうす知っていた、悲しい出来事。小さな死者がいたということ。
あれは2016年、父が死ぬ直前の冬のこと。突然、「宮崎の実家のお骨を厚木のお墓に入れるぞ」と言いはじめ、複数届いた骨壺と、木のお位牌。そのなかにあった、小さな小さな骨壺。
それは叔父の弟だったシズオさんのお骨である。
・・・いままでこの記録では、先だって亡くなった叔父のことを「末っ子」と書いていたが、じつはその下に、2歳弱で亡くなった叔父がいるのだ。
以下の写真で、祖父が抱いている元気そうな赤ちゃんがシズオさんである。
そして、昭和21年6月6日、福岡市にて死亡。
わたしが相続人になるにあたり、死亡日と亡くなった地を知った。
うちは比較的早めに引き揚げたときいたが、それでも病や死からは逃れられなかったのだ。終戦直後は貧しかったときいたが、そのような中で、祖父母や、父12歳、叔父8歳。小さな弟の死の悲しみは、いかばかりだったろう・・・。
今回の掃除でみつけた、1990年代後半の叔父の日記に、それについて短い記述があった。
シズオの命日。覚えているだけでなにもしてやれない。
・・・その死から50年が経過しても、その痛みは消えることはないのだ。
祖父母や父の一家は、小さな死者の面影をその心理の奥に隠し、ときに呼び覚まし、おそらくはともに高度経済成長期を生きてきたのだった。
奥の深い世界の、ほんの入り口をみたような気がした。
自分はいままで、高齢者を敬う気持ちが足りなかった。年を重ねたひとはそれだけ多くのものをみてきて、その精神にはさまざまな人生ドラマを含んでいるのだ。それに対して敬意をはらい、耳を傾けなければいけなかったのだ。
お父さんに会いたい。
が、今更言っても遅い。
お父さんに会いたい、叔父さんにも会いたい、いろんな話が聞きたい。
・・・そう思うときには、手遅れなのだ。
今頃、雲の上で、シズオ叔父も含めて、一家で穏やかに過ごしているのだろう。
これもギフトだと思うことにした。
◆
そして、さっそく下見をしてくれた撤去工事の業者さんが、いちど会って話したいというので、鹿児島空港ゆきの飛行機を予約し、三度目の串間の旅に行くことになった。
閉所恐怖症のわたし、相変わらず飛行機は苦手で・・・瞳を閉じてやり過ごした。
(長くなりすぎたので・・・続くっ)
◆
CD、良かったら、よろしくお願いします ♪
記事は以上です。以下は投げ銭です。