おだやかな冬の日。このときは台風の影響で列車が不通となっており、串間駅は列車の来ない駅となっていた。よって、プラットホームに制服を来た駅員というものはいなかった。
不通区間の駅には草木が生い茂り、バナナの葉っぱが南国を思わせる。
架線のない空はあまりに広大で、描かれていないスケッチブックを渡されたわたしの想像の風船がいくつも膨らんでは海の方へ流されていった。
都会の駅前を見慣れた自分には、なにか「少ない」空間だというふうにみえた。だが、東京で疲れた自分には、もう、東京が総合的に勝っているという感じはなかった。この「少なさ」、広告の、建物の、誘因の、人の少なさが、自分にはとても良かった。
◆
意外によく眠れた。
おはよう串間。
おはくし~。
おはくし~。
串間駅前は白い空の広がる空間。雲が自然に立ちあらわれ、また形を変えて流れてゆく。天然の空に同じ絵は二度と描かれないこと、今日という日は二度と来ないことを、水彩画のタッチで教えてくれる。
人が少ない街かどで、すれ違う人と自然に挨拶を交わす。
駅前には、日南線代行バスや、コミュニティバスが行き交っている。少しのタクシーも待っている。あらかじめ時間を調べてゆけば、意外に便利だということがわかった。
・・・わたしはいつも必死になると周りが見えなくなってしまう。あとから、あんなに必死になることはなかったと思い、自分の必死さで周りの人を振り回していたかもしれないと反省するのだが・・・
このときも、やたらと重たい荷物を持っていた。重たい、重たい、肩が痛い・・・などと言いながら、この大変さも自業自得であると言い聞かせ、自分を罰することで何かを得ようとしていた。ここに来なかったら後悔するだろうなと思ったし、この街に飛び込むことができるのはわたしのほかに誰もいなかった。兄姉のなかでも末っ子のわたしはこの街に関する思い出がもっとも少ない。それでも何となくわたしが来ることになっていたし、わたしは喜んでこの街とのつながりを持ったのだ。もしも次の人生があるとして、その、次に生まれてくるときの、臍の緒のように、はい、わたしが家族です、と、この街の福祉職の皆さんと電話や郵便を交わしていたのだ。
その総決算のときが来た。
落ち着かなくちゃ。
その日の朝、はやくもガサガサになった指先を見つめながら、重たい荷物を路肩において、小石を拾った。
この水道管が、遠く、太平洋にそそいでいるのだろうか。
つながった管のなかを、世界はどんなふうに流れてゆくのだろうか。
海とつながる空がある。
お父さん。
父が死んでから、もう6年にもなるのか。
もう70年ちかく前のことだろうが、高校生だった父がこの街では俊足のヒーローだったという意外な話を思い出した。
串間2日目の朝だった。重たい荷物を持ちながら郵便局が開くのを待っていた。路上には、ほとんど誰もいない。静かな駅前の商店街で、大きな荷物をもって郵便局の前に座り込むわたしをみて、郵便局の方が声をかけてくれた。用件を話すと、いろいろと親切にしてくれた。
気さくないい人が多い街で、心が和んだ。
何しろ、ゆうパックしか使えないのだ。
お骨を送るときには。
それからわたしは次の用事、銀行に呼ばれて奥の席に座らされた。しかしその要件は、実はたいしたことのない要件であった。すぐに銀行からは解放され、駅前に出た。
・・さて、次にしなくてはならないことは・・・
ガサガサの指先を見ながら、思い立つ。
・・・観光でもするか!
串間の観光といえば、都井岬(といみさき)。
野生の馬、御崎馬(みさきうま)というらしいが、それがいることで知られる岬である。串間駅からほど近い。一度行ってみたいと思っていた。
タクシーで行こうかもと思ったが、よくよく調べたらコミュニティバス「よかバス」で行けることがわかった。それほど本数は多くないものの、ちょうどいい時間に出ることがわかった。
良かった。片道200円で行けそうだ。
わたしを乗せたマイクロバスは、乗客はわたし一人、運転手さんが一人。静かに出発すると、もちろん渋滞することもなく、鳥が憩うおだやかな川を渡り、山がちな緑の平原をゆるくカーブしながら、深い木々の山すそに吸い込まれてゆく。
人里を離れ、精神が洗われてゆく。
広がる山すそ、冬の田んぼや草原のなかに保育園(こども園)が見えてきた。
園児たちがひろびろとした大地を歩むのがみえる。駆け出す子供の姿、エプロン姿の大人の姿もみえる。韋駄天の子が天駆ける。
こんな広大なお花畑で育つ子供たちは幸せだと思う。きっと深い記憶として、この風景や、静かな樹々の風のなかで遊んだ記憶が残るのだろうな、そしてそれは子供たちの支えになるのだろうな、そんなことを思った。
そういえば、マイクロバスのなかで流れていた地元ラジオで
ー子供たちによる大声コンテストが行われましたー
といった放送があった。
「大声コンテスト」・・・調べてみたら多くの地域で行われているようであるが、騒音問題が取りざたされている東京ではあまりきかない。
大声を出すのは良いことだ!
大声を出そう!
そこには人間の声に対するリスペクトと、声は生命のあかしという認識があるように感じた。
なぞの建物もみえた。
薄らいだ文字は、「スナック・喫茶 道路」というふうにみえる。
都井岬から逃げてきた馬が立ち寄るのかもしれない・・・
お通しは、ニンジンだろう。
わたしだけを乗せたマイクロバスはさらに山奥へ進み、進行方向右側、壁のように立ち並ぶ山並みの緑がいよいよ濃くなってきた。風が吹くたびに無数の葉はざわざわと波うち、人間の小ささ、自然の大きさを伝える。
人の少ない風景のなか、人の姿がみえるとほっとする。腰の曲がった女性が路上で手をあげる。マイクロバスが停まって、彼女をピックアップする。また走りだす。そしてその女性は温泉らしきところで下車した。温泉があることを初めて知った。
乗客はまたわたしひとりになった。
冬というのに緑濃い奥地へとマイクロバスはのぼりゆき、やがてバスが聖域に入っていった。ここでは、御崎馬が主役である、人間はわき役であるという、そんな聖域であると、そんな表示が見えた。
マイクロバスが高度を上げてゆく。
窓に視線がぶつかり、その向こうに広がる風景にしばし心を奪われる。
亡き父の俊足がともに駆け出す。
海、それは、こんなにも大きなものであった。
マイクロバスからの眺めもまた素晴らしいものであった。
椰子の木が冬空を飾り、ここは九州なのだと気づかされる。
新鮮でありながら静かな岬の風景を堪能しつつ、バスは30分ほどで都井岬の代表的な施設である「パカラパカ」に到着した。
「パカラパカ」は、都井岬に新しくできた休憩所のようであった。
ほっとしてバスを降りると、さっそく、彼女の姿が見えた。
おお・・・。
あなたは、赤兎馬(せきとば)か(※)
(※)稀代の名馬で、一日に千里を駆けることができるという・・・
馬に近づいてはいけないそうなので、さりげなく、すれ違う。ドンという音がしそうな存在感。大きな肉の存在感が、ほのかな獣の香りとして伝わってくる。勝てない。この存在には、とても勝てない・・・。
拝みたくなる。
こんなに近くで馬を見るなんて、大田区民はあまりないだろう・・・
川崎市民ならあるかもしれないが・・・(笑)
実は、わたしはあまり「都井岬」について知らず、「野生の馬さんがいるのね~」くらいの気持ちで行ったが、以下の看板を読んで、気持ちが引き締まった。
「粗食に耐えて頑強な個体」
という言葉には、飽食にまみれ弱ったこの身を反省させられ、
「好きなものを食べ、好きな相手と結婚し、自由に暮らす姿は 生き物本来の気高さを~」
との言葉には
・・・おおぅ!完敗だ!
と、なぞのショックを感じるのであった・・・。
そして「武士の馬が品種改良せずに生き残っている」というその貴重な事実は、何気なく見つめる馬のなかに、歴史が畳み込まれていることを知ったのだ。
馬はわたしたちの生活に欠かすことができない。
そして憧れの動物である。
馬はすてき・・・。
・・・ちなみに、わたしが「馬はすてき・・・」と歌っているのは、この唄です(↓)
2時間程度の滞在だったが、パカラパカで荷物を預かっていただき、少し周辺を歩いてみた。
ところで、荷物は無料で預かってくださった。この旅でつくづく感じたのだが、この街のサービスには金銭的に気前が良いというか、商売心を感じない。日ごろ、どうしたらお金を儲けられるかということばかり考えている、さもしくドケチな自分を反省させられる・・・。
なにより、この風景を観ることが、そしてそこに身を置くことは・・・金銭に代えがたい経験だ。
群生するソテツが力強さを感じさせる風景。海はおだやかであるが、ただそこに海があるだけで自分の精神や思考、情緒がその青にじゃぶじゃぶと洗われるようである。まるで、堂々たる偉人が隣にいるだけで、心が磨かれてゆくのと同じような気持ち。この岬にはそれがある。
さらに道路を下ってゆくと、廃墟となったホテルがいくつかあった。
うっすら「都井岬荘」の文字がみえる。
おそらくは70年代、80年代、きっと宿泊客で賑わったのであろう。
建物は、もしかしたら作るのは簡単なのかもしれない、だが、片づけたり、後始末をしたりするのはなんと難しいことか。それはまさに、この串間に来た用件そのものであり、我がこととして思う、片付けの難しさ。建物はだんだん廃墟となってゆく、それを片づけるのは時間とお金がかかることであり、難しいことなのだ。そうしている間にもかつて宿だった建物は風にさらされ傷みを深め、さらに片づけを困難にしてゆく。馬は立ち入り虫は巣くう、おっと、馬糞を踏みつけそうになる。だが馬糞はすぐに自然に還ってゆく。虫も獣も死骸も糞も、すぐに自然の環に溶け込む。建物だけが、自然に還らず、こうしてその亡骸を曝し続ける・・・あるいは、この建物も、誰かが、ときに馬たちが有効利用しているのかもしれない。そうであってほしい。
せめて、俊足の幽霊が、遊んでいてほしい。
人間は廃墟に住むことはできないが、植物たちはその廃墟を、それぞれの好きな形で用いたり生息場所にしたりする。その逞しさをも見習いたい。わたしもこんな宿に暮らせるようなたくましさを身につけたい。そのためには、人間の世界に染まりすぎてはいけない・・・わたしもここで生き抜きたい・・・もうネットは切ったし・・・先祖と生きるのじゃ、ぐるぐるぐるぐる・・・
・・・誰もいない廃墟ホテルの庭でそんなことを考えていた時、ふと視線を感じた。
パンダだ。
・・・いや、びっくりした・・・こんな南国に、パンダがいるのか。
笹の葉はあるのか?
待ちつかれた姿で、いつまでもスタンダップ、そこで待ち構えていた。
「・・・かつては子供たちの人気者だったんです、僕は・・・。」
そんな哀しい目をしているパンダの汚れた外装。
かなしいね。日本だね、令和だね。話しかけてみた。
そして、茂みの向こうにも動物の視線を感じた・・・。
牛だ。
動かない猛牛。
かがみこむようにして、じっとこちらを見ている。
バッファロー、あなたもずっとそこで誰かを待っていたの?
時には馬に蹴られながら・・・。
近寄ってみると、悲し気な目をしていた。
「・・・かつては子供たちの人気者だったんだ、俺さまは・・・いや、焼肉にされて喰われたけどね☆」
そんな目をしていた。
こんな馬糞まみれの草原で、動かないパンダや牛たちは存在しているが、いまではなく、過去の世界のなかでひっそり生息しているようであった。そして、こうして歩いている自分もまるで過去の自分がふわふわと飛んでいるような気がした、そう、いまは昭和じゃないの?、令和、何じゃそれ?そう、ここは人里はなれた魂の御崎(みさき)、人間の精神のちからは強すぎて現実や身体をうっかり飛び越えてしまう。ここでこうして歩いているわたしもそろそろ身が軽くなり、見当識のリボンが風にほどかれ、乱れた髪が風に吹かれて朽ち果てながら森の一部になりかけていた。生き返らなくてはならない。道路に戻った。
なだらかな斜面を歩くと、草をはむ馬がいた。
淡いブラウンの毛並みをもった、美しい馬だった。
そこは本当に音がしない世界だった。わたしは荷物を路肩に置いて、じっとそこにたたずんでいた。すると、だんだんと音楽が聞こえてきた。譜面に起こせない音楽。文字に起こせない音楽は、自然のつくる音楽であった。わたしはその音楽に包まれ、ひととき無になった。可憐な花々の向こうで低い草をはむその姿はあまりに凛として可憐で、空気を乱すこともはばかられるほどだった。わたしは静かにカメラのシャッターを押し、そして、誰かにこの風景を伝えたいなと思った。しかし、この風景を伝えられるような相手が浮かばなかった。もうダメかもしれない、そして、このダメは、良いかもしれない。自分がたどり着いた境地のこと、自分が識(し)ったことや感じたことについて、自分があまりに遠くに来てしまったことについて、もうそれを誰かに伝える言葉がみつからないのだった。とうとう孤独になることができ、やっとこの地で生きてゆく資格が得られたように感じた。だがまだ荷物は重く、腕は痛かった。
(・・・お骨は、今頃、ゆうパックのトラックで東へ向かっているのか・・・)
そしてまた「パカラパカ」に戻り、コーヒーを飲んだりお土産を買ったりした。旅行のクーポンで3000円ぶんのお土産を買えるらしいので、ここでかなり散財した。
パカラパカ名物の「馬の出産シーン」から始まるビデオを観て満足し、帰りのマイクロバスに乗り込んだ。
あっ、馬さんだ。
さようなら、馬さん。
韋駄天の子が天駆ける・・・
さようなら、さようなら、俊足たち!
マイクロバスの窓から、馬が道路に出てきているのが見えた。クルマなどより自分たちは上なのだと、いや上も下もないのだと、この岬は俺たちの故郷だと、そんなふうに誇らしく生きているようであった。
地元の人にとっては何気ない馬のいる風景、だけどわたしにとっては物珍しい風景を、いつまでも見送っていた。
バスは渋滞もなく静かに走り、ほどなく串間駅前に戻ることができた。
白い冬曇りの駅前で空を見上げると、青い鳥が止まっているのがみえた。
「あっ 幸福の青い鳥だ。」
夢中でシャッターを切ったが、帰宅して写真を見たら、その鳥は別に青くなかった。
わずか2日目の滞在であるが、「少ない」と思われた駅前商店街の構造をいくぶん理解し、食料や飲料の買い物が容易になってきた。そしてこの街が「少ない」わけではないと気づいた・・・そりゃそうだ、「少ない」は、別の何かが「多い」のだから・・・。
これからの人生を串間で生きてゆく、そんなことは出来るだろうか?
そんなことをずっと考えていた。
それは、都会人にありがちな、都合の良い考えだ。あきれてしまう。都会に疲れて自然に多いところに住みたがる、なんて、ありがちな考え、都会人の傲慢なのだ・・・たまに来て、良いところだけをみて、良いところだと理想化しすぎている自分に気づき、申し訳なく思う。
だが、ここは、ただの田舎ではなく、父の故郷である、そして、それであるがゆえに、今わたしはここに立っているのだ。来ない列車を待つ駅のある串間に来たのだ。
パカラン、パカラン、思考の馬は俊足に駆け去りゆく、宝石のような馬糞を残して。
東京で疲弊した自分にとって、王子の白馬であったのだ、降ってわいたような串間とは・・・。
(つづく)
記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。