この記事は、以下の記事の続きである。
串間シリーズは、以下にまとめてある。
このシリーズは、「独身の叔父が死んだので宮崎県串間市の崩壊寸前の家の片づけをしにいったら、気づいたときには自分が相続人になっていた」というストーリーである。
崩壊寸前。
串間の土地を正式に相続してから行った旅が、前回の「三度目の旅」であった。飲み物も飲まずに片づけをしていたら熱中症(?)でフラフラになり、これが九州の夏か・・・と、灼熱の洗礼を受けた(大げさ)。
宮崎は晴れの国。生い茂る草の生命力。九州へのあこがれと、きびしい夏の暑さ。いつまでも暮れない西の夏の空は、児童が抱く夢と現実のあわいのように、あるいはもう別の世界に行ってしまった家族の霊魂が出会う場所のように、いつまでも弱い光を湛えていた。
◆
そして、三度目の旅で、東京に送った3台のノートパソコン。叔父の家にあったものである。名も知らぬメーカーで、同じ大きさ、同じ型番の黒いパソコン3台。外装も汚れ、立ち上がるかどうかもわからなかったが、ケーブルをつないだら3台とも本体に小さな灯りがついた。
カシャーン・・・機械が呼吸をはじめる、かすかな羽音が聞こえた。
そのとき、自分のなかに警告の赤いランプも灯った。
・・・今どきのパソコンは、業務上の秘匿情報や個人的な性癖を含むさまざまな情報が入っているであろう・・・本来ならば、あけずに廃棄するべきだろう、だが、好奇心に勝てなかった。
ピーっと警告音を鳴らしながら、パソコンは目覚める。
1台はOSが見つからないと言われたが、2台はWindowsが立ち上がった。
ところで、これまでの片づけで、叔父が50代後半だったころの3行日記をこちらに持ってきていた。ときどき空白はあるものの、ほぼ毎日、きちんと書かれた日々の記録である。少しためらいを感じつつもそれを読むと、読みやすい丸みのある文字で、小さな会社の社長としての日々の仕事のことやその苦労話、選挙がイヤだったこと、毎日のように友人が囲碁をうちに来ていたこと、などが書かれていた。
人のよさそうな叔父はその外面のとおり、多くの友人に囲まれ、とくに特定の男友達の頻回な来訪もあったようで、けして孤独に暮らしていたわけではなかったことがうかがえた。
夜には行きつけのスナックにゆき、酒を飲み、喫煙し、動物を愛し、猫を埋葬し・・・ときには夜中に酔った女友達が押し掛けてきた記録もあった、「迷惑」という言葉を添えて・・・。
なぜ叔父は結婚しなかったのだろう。
叔父がモテないはずはない、というのは女性のカンか、贔屓目か。そういえば祖母が父にあてた手紙のなかで、「あれ(叔父)に嫁でも来たらおちつくのだが・・・」といったような願いを父宛てに書いていたこともあった。周囲も気をもんだに違いない。たくさんの候補はあったのだろうが、叔父は生涯をずっと独身で過ごしたことが戸籍からもうかがえた。
ふと、いくつかの可能性が思いついた。
それまで思いつきもしなかった可能性が。
・・・だが、もしそうだとして、なんだというのだ・・・うん、わたしの周囲ではよくあることだから、普通の事だ・・・だけど、そんな思いつきを補強するデータが出てきたら・・・などといろいろ考えつつ立ち上げたパソコン。久々に光を得た泥まみれの黒い画面にWindows Vistaという懐かしい響き。
結論としては、ユーザー名に友人の名前が入っており、友人のパソコンだったらしい!
そんなオチであった。
10年以上の日付を刻むそのパソコンに、囲碁ソフトが入っていた。
その時、思い出した。父が生前、叔父とネットで囲碁を打っていたことを。
「あいつ(叔父)とネットで対戦しているが、あいつもなかなか強い。雨の日は建築の仕事が無いのだろう」とわたしに笑いながら話した父の禿頭がよみがえる。
ありがとうインターネット。離れた点と点が、時空を超えて、いま、つながる。わたしのなかで、ふたつのパソコンの光が、互いに気づき、囲碁をはじめる。互いを懐かしむふたつのにぶい光の霊(たま)。それは、2017年1月に死んだ父と、2022年秋に死んだ叔父の、どこか知らない世界における、魂どうしの、出会いでもあるのだ。
やっぱり、このパソコンを持ってきて、よかった。
しかし、Windows Vista・・・実際に使うのは難しそうだ。
◆
ところで、最初の旅のときに「ゆうパック」で送られたお骨は・・・
まだわたしの蒲田の事務所にある。
ショート動画を作ったら妙に再生数が多かった。
わたしには実兄がいる。健在。
松岡家を継ぐものである兄が、叔父のお骨もなんとかするだろうと遠慮していたが・・・1年以上が経過したのでわたしのほうで動くことにした。
1年以上、お骨とともに暮らしたことになる。この怖がりで不安の強い自分が、「叔父の幽霊なら出てもいいや」と思ったことが不思議である。
年齢を重ねて現実を知るごとに、むしろ、この世界には見えないものが数多くあり、その見えないものたちに守られているのだという世界観が構築されつつある。
かつて、ニューロンに対するグリア細胞は、情報伝達に関わらない「接着剤/ニカワ」のような細胞だと思われていた。しかし現在、グリア細胞も情報伝達にかなり関わっていることが指摘されている。
それと同じように、情報伝達の媒質は言葉や映像ばかりではないのだということを思う。スピリチュアルはオカルトだと思い込んでいた自分を恥じる。そんな気づきを語ると、それが仏の教えだと身内がいう。長い時間をかけて仏教にたどりついてしまったが、そういえばもともと松岡の家も仏教の家。
しっかりお墓に入れてさしあげますので、安心してください、背後でピカピカ光る霊魂を慰める、それは叔父でも祖父でもない、禿頭の父の霊魂の輝きであった。
◆
東京に戻ってから、撤去工事のことで業者とあらためて打ち合わせを行った。崩壊寸前のほうの建物は撤去すること、まだ大丈夫そうなもう1棟も、中の物品はすべて撤去していただくことをお願いした。
見積額は想像通りの大金であった。これは相続人の義務であり、仕方がないことだと自分を納得させた。
工事は秋の台風前に出来ればいいかと思っていたが、宮崎では8月にも台風が来るので、もうなるべく早く行いたいとのことで、真夏の工事となった。
業者が、段階ごとの写真を送ってくれた。
・・・壊すと決めたら・・・無くなるのは・・・早いものである。
さようなら、ちょっとこわい仏壇のある父の実家。「仏壇のご飯が減っているから怖い、仏壇の前で寝たくない」などと言いながら姉とふざけた父の実家。今ならわかる、昭和の木造住宅には隙間があって、いろいろなものが入ってくることも。仏壇のお供え物は、猫やらネズミやら、あのお葬式で亡くなったおじいちゃんの霊魂やら、家に訪れる客のためのお供えであったことも。そして、見えないものを想像させ、子供のイマジネーションを涵養してくれた家であったことも。
父も叔父も、この家で育てあげられ、そしてわたしが生まれた。
末っ子のわたしが、その家の幕引きを行った。
さようなら、天井から光の漏れる家。
業者の最後のメールでは、すっかり綺麗になった土地の写真を送ってくれた。
◆
さて、この土地をどうしたらいいのだ。
2月に、「4度目の串間の旅」に行くことになっており、そこでこの土地の活用法や、残っているほうの建物をどうするかについて、結論を出すことになる。
いちばん現実的な解は「売却する」であるが・・・
実際に串間に行ってみると、魅力的な場所なのだ。この土地には特別なパワーがあるように感じ、ご縁が切れるのが惜しいという気もする。
鹿児島出身で都民の友人に話すと、「小屋を作れば?楽しそう、手伝うよ~、クラファンして、出資者は泊めてあげるとかしても、いいかも!」と、とても前向きなアイデアをくれた。
「インスタントハウスってのもあるよ」と教えてくれた。
・・・なんか素敵ね。旅暮らしみたい。
・・・しかし、Mサイズが「ひゃくはちじゅうまん」かぁ・・くしくも撤去費用と似たような額。普通に建てるよりは手ごろだが・・・。
そして、友人が「いま不動前のガード下にインスタントハウスが出来てるよ。現物見たら、参考になるかも」と教えてくれたので、ゲンロンカフェに行く前に見に行った。
(余談だが、ゲンロンカフェが不動前にあると勘違いしてたが大崎広小路であった・・・まあまあ近いですが。)
池上線の高架下に、都会のテント。
東急はこのテントをフィットネス事業に用いるらしい・・・ふぉー。
都心部にあると狭苦しいな・・・。
そしてわたしが、自分が相続した土地にこれを建ててどうしよう・・・あまり想像できないな・・・どうせなら防音スタジオを・・・どうせなら広くてエアコンもあって・・・などと別方向に妄想がはかどる。
そういえば串間にもテント的な事業があったのを思い出した。
なんか素敵なウェブサイトで、見とれてしまった。
こうしてみると串間というのは魅力的なところだな・・・生き物がその生をまっとうできるような風土。そして・・・もしかしたら、テントが似合う風土であるかもしれない。
わたしは貯金も友人も少なく、地位も権力も若さもなく、そんなに大胆なことが出来るルートに乗っているわけではない。東京で行う仕事があり、ケアしなくてはいけない人もいる。だが、小さな贅沢というか、小さな冒険くらいなら、出来るかもしれない。
つつましく生きすぎて、富裕の世界を知らないことは、世間知らずにつながる。今までは自分の欲望を家などで叶えるという発想がわかず、そこにあるものを使って過ごした。だけど、もう少しだけ、贅沢をしても良いのかもしれない。
というわけで、次回の旅では「空港ラウンジ」を初めて利用したいと思う。
というのは、auショップの勧めでとうとうau PAY ゴールドカードをゲットしてしまったのだ。会費のモトを取るためにも、ぜひとも空港ラウンジを使おうと思う。そのために往復の飛行機は朝晩でなくデイタイムにした。
そして次回は久しぶりに宮崎空港を使うことにした。愛称はブーゲンビリア空港。
最高の気候が味わえる2月の九州への旅、楽しみである。
(つづく)
♪