松岡宮のブログ

詩でうた作り

三度目の串間の旅のこと(体調不良というギフト)

この記事は、以下の記事の続きである。

 

ekiin.hatenablog.com

 

三度目の串間の旅が、これまでと違うのは、わたしが単独の相続人になったということであった。

 

末っ子、次女、背は低い・・・

 

おまけにどっかの家へと嫁に出た・・・。

 

こんなわたしが松岡家の当主である!

 

よって、かかる金銭は自分ひとりでなんとかしなくてはならない。そのぶん、自分で土地や家のことを決められる気楽さはあった。

 

最初の仕事は、母屋の撤去である。

相続した敷地には、「崩壊寸前の”母屋”」と「そこまで壊れそうではないが、中はゴミだらけの”離れ”」の2棟ある。

撤去もしくはリフォームの相談を業者にしてみたら、さっそく見学に行ってくれ、状態が悪い母屋のほうは「台風が来る前に早急に撤去しなくては危ない」と忠告された。

 

宮崎は「台風銀座」であり、秋ではなく7月~8月にも台風のリスクがあるという・・・「台風銀座」・・・それは想像を超えた言葉であり、わたしの知っている銀座ではなかった。

 

東京とは違う世界、南九州の気候があるのだと気づいた。

 

そして業者から届いた撤去工事の見積額は、思った通りの高額であった。

 

いまの時代、何かを手に入れるということは、そこに「さいごまでめんどうをみてください」という責任の札が紐づいているということである。

だからみんな、手を引いてゆく。

何かを得ることは費用負担のほうが大きいのだ。

「これは父の故郷への寄付なんだ」と思って自分を納得させ、「了解しました。工事を進めてください」とお伝えした。

 

実際の工事の前に、業者さんといちど顔を合わせて話し合おうということになり、6月末に行くことにしたのが、この「3度目の串間への旅」である。

 

 

2023年6月末、3度目の串間の旅。
以下の便をネットで安く取った。
1万円未満。
鹿児島行きは安くてよい。
 
便  名:SKY301
発着空港:東京/羽田 - 鹿児島
発着時間:06:35 - 08:25
 
今回が今までの2度の旅と違うのは「夏である」という点だ。
 
庭はおそらく草ぼうぼう、虫対策が必要だな・・・ということで、もっともハードなブーツを履いてゆくことにした。服装も、長袖、長ズボン。自分は暑さに強い体質なので、厚着してゆこうと決めたのだ。ただ着替えを持って行かなかったのは失敗で、現地でシャツを購入することになった。
 
旅行前日の夜中0時から英会話だったが、眠さでうまく答えられなかった。今思えばそんな時刻に英会話を入れなくてもよかった。
 
就寝してすぐに起床時刻の4時半が来た。外は明るい。
これまでの冬の旅とは違うな、夏なのだなと思う。
 
わたしはケチなのでいつも弁当を持ってゆく。
この時は、歴史に残る、ひどい「しりある弁当」だった。
 


この頃、美容と健康に良いのかと思って低糖質シリアルを買ってみたのであるが・・・鳥の餌のようで、あまり好みではなかった。
余っていたので持って行けばいつか食べるだろう・・・と弁当箱に突っ込んだが、その予想は外れ、結果的にこのシリアルは食べきれず、捨てるわけにもいかず持て余した。
自分はこういうシリアルが好きではないのだなと実感した。そういえば実はあまり牛乳も好きではなかった。
 
串間への旅を思うとき、トイレの近い自分は空腹の恐怖よりトイレが無い恐怖のほうが大きい。そのため、朝のコーヒーも控えめに、買ったばかりの黒いトランクを引きずり、出発した。
 
矢口渡から蒲田へ向かう始発列車は5時11分、それなりに乗客がいた。黒いスパッツの同世代の女性がみえたが、仕事に行くのだろうか?朝が弱い自分の知らない世界があるようだ。
 
JR蒲田駅東口ロータリーには空港行きリムジンバスのバス停があり、すでに行列が出来ていたが、わたしはケチなので徒歩で京急まで向かう。
いちばん近道はいちばん色っぽい通りで、結婚恋愛相談所の看板が目立っていた。
 
 
早朝であるので呼び込みもなく、鳩がエサを探して群れだっていた。
 
徒歩10分ほどで京急蒲田に到着した。朝の5時半ごろであったが、もう暑いくらいの気温であり、汗ばんできた。
京急ホームの3階まで直通する長いエスカレーターに乗り、要塞のように巨大なホームから乗り込んだ空港線優等列車。高架線の蒲田を出てゆるやかにカーブする風景の左手に、お世話になった精神科病院の南晴病院のさびた鉄枠が見えた。
周囲から浮いて黒ずんだその病院の姿は、自分が地上から見ているときよりも古びて見えた。
 
第1ターミナル、北ウイングからスカイマークへ搭乗する。
3度目ともなれば慣れてきて、ハサミを手荷物から除き、逆に一つだけ持ってきたモバイルバッテリーは手荷物に入れる。ブーツは脱げと言われることを予想し、脱ぐ準備をする。
ずいぶん空港慣れした自分に気づく。

 

 

空港に「ラウンジ」という空間があるらしく、自分には縁のない空間だとは思うし、それに入り込んだわけでもないのだが、どんなところなのか、気になった。

 

えらばれしひとが入れるのか・・・?

わくわく・・・。

 

「ラウンジ」について考えることが、この旅の宿題となった。

 

 

飛行機は3人掛けの窓際の席、しかも隣は空席となっており、快適に過ごすことができた・・・と言いたいところだが、朝はやっぱり体調が悪い。早起きは心身に悪影響を与え、いつものパニック発作がひたひたとこちらに来そうである。頓服も持ち歩いているがそれは最後の手段とし、あわててグランビートでジャズを聴いて心を落ち着かせた。

 
そう、この頃は友人の影響でよくジャズを聴いていた。
 
「第3の男」、「スターダスト」、「サマータイム」・・・英語を聞き取ろうとがんばる。
 
パニック対策は作業を拮抗させることなのだ。
飛行機は本当にパニックとの戦いなのだ。
 
個人差はあろうが自分は離陸までがもっとも緊張感が高まる時間であり、自分の精神が膨張するのをなんとか収めるために、ジャズを聴く、英語を聴く、英語を思う、学びまくる。閉ざされた飛行機はゆっくり進み、やがてカーブしながら滑走路に位置する。あっ、いまから離陸するとわかる。皮膚全体から周囲の様子を推し量るのは警戒心の強い人間の癖だ。そしてわたしを乗せたスカイマークは轟音をたてて離陸する、その瞬間、角度が変化し、体が斜めになる、その無力。この世界にGがあることを感じる。Gはゴキブリではない。Gのコードは何だっけ。ジャズは相変わらず流れている。パニックはわたしの神経に来てはいないが油断をすると来てしまいそうで、第3の男、スターダスト、サマータイム、子音の聞き取りに集中する。そして、パニック除けには演技が大事だ、わたしね、これからニューヨークにジャズ留学なんだ・・・HAHAHA、それなんて大江千里
 
 
今回も機内でキットカットとインスタントコーヒーをサービスしてくれたが、長時間トイレのないバスに乗るのでコーヒーは喉を湿らせる程度にした。
トイレの近い人間は、つまりキャパの小さい人間は、のちの廃棄のことばかり考えてしまう。
 
また、機内でNHK放送大学認知神経科学」PDFを読んでいた形跡があった、が、なぜかあまり覚えていない。不眠に悩む夜は、実は寝ているのだといわれるが、飛行機に乗っているときはやたらと研ぎ澄まされて「眠れそうで眠れない」と思っていても、あとから考えると半分寝ている。薬は飲んでいないが、記憶に薄い霧がかかっている。
 
飛行機は早い。思いのほかすぐに着陸態勢に入る。窓の外、雲間から緑の田園がギラリと光り輝いてみえる。もう九州上空なのかと思う間もなく飛行機は高度を下げ、轟音をたてて鹿児島空港に滑り込む。時は8時25分。
 
手荷物を受け取って外をみたらスコールのような雨が降っている。大粒の雨音が響く。鹿児島の天気は変わりやすいのか。
 
志布志行きのバスは9時40分発なので、鹿児島空港で1時間ちょっと待つ。飲み物は控えるが、食べ物は補給しようと思い、鹿児島空港のベンチでおやつを食べる。
 
 
 
そして9時40分、定刻で出発したバスには10人ほど乗り込んだ。わたしは最前列の座席の足元にトランクを詰め込み、ぎゅうっと身を細めて乗り込んだ。固定されているような狭さが心地よかった。

 

さあ、いざ、志布志まで。

 

 

真夏のような太陽の下、あちらこちらで咲く花を見る。

 

志布志までの1時間50分をどのように過ごしたのかは記憶にないが・・・おそらくGRANBEATでジャズを聴きながら、睡眠を取っていたのだろうと思う。

 

志布志に到着する予兆は風景でわかる。山がちの、緑に覆われた風景から、少し住宅が現れはじめる。最後に商業地が現れる。

 

坂を下って右に曲がり、見慣れた市役所のある通りが現れると、志布志駅に到着。

 
空は快晴。
夏の志布志は一段と空が青い。
 

 
日傘を持ってきていなかったので港に行くことはあきらめ、駅から徒歩5分ほどの「オリーブ ド ラブ」というお店で昼食をとることにした。
 
 
 
このお店は、外からは想像もできないほど広々しており、綺麗でセンスの良いお店だった。
お客さんもそれなりに居たが、一人客のわたしも4人掛けくらいの広い席に案内してくれた。広々としたテーブルがうれしい。
 
 
ガーリックトースト、サラダ、アイスコーヒーを、「南日本新聞」を読みながらいただく。
イタリアの高級パスタを使っているようでとてもおいしかった。また、ガーリックトーストもフレイバーが強く、とても美味しかった。(←語彙がない)
 
志布志まで来るとなんだか安心する。
これから行く串間は宮崎県、志布志は鹿児島県、別の県なのに、同じ地域だなという感じがする。
 
志布志から業者さんに連絡をし、15時に現地集合の予定を確認した。
そして、そういえば志布志駅は始発駅なのだから早く行ってもいいかもと思い、ふたたび志布志駅まで向かった。

 

「ぼくはすっかりげんきになりました!」

 

やっと全線復旧した日南線が出迎えてくれた。

 

 

3度目にして、やっと志布志駅から串間駅まですべて日南線の鉄道で行くことができる。「日南線で串間まで日南線で行く」ことは、当たり前ではないのだ。奇跡のトランスポートを引っ張る運転士のたくましい肩に夏の日差しが差す。
 
白い車体は、数人の客を乗せて出発する。
 
ガタンガタン・・・伸び盛りの木々の合間から見えるエメラルドの海。鬱蒼とした森の生命力は嘔吐となり広い海へと収斂される。海側の切り立った崖の風景が言葉に尽くせぬ迫力で、海に対する地上は小さいものであり、人間などはさらに小さいものだと実感する。

無力で小さな自分が、ガタンガタンと身も心も揺らされて、なぜかテンションが上がる。
 
無力は力なのだ。
 
  
 
そう、無力は力なのだ。
 
東京に居ては尊大になる自分が、ここでは無力であることを学ぶことは、先祖からのギフトなのだ。わが精神が新緑に染まる。ああ宮崎に住みたい。
 
思えば、この時は元気だった。
 

そして志布志から20分弱で到着した串間駅は・・・あれ、前回と何かが違う・・・

そうだ、工事が終わったのだ。

 

・・・なんと、駅舎が綺麗にリニューアルされていた!

 

 
駅舎や周辺がとても綺麗になっている。こじんまりとした駅舎は、まるで鉄道模型に出てくる駅のようにピカピカ、新しく夢のある空間に自分が身を置いているようだ。
これは、鉄道の駅が市によって大事に思われている証ではないだろうか。
 
駅の小さな待合室には、昭和天皇が来た時の写真が飾ってあった。SLの写真も飾られ、地元の手作り品も販売されていた。
 
記念に買えばよかったな・・・。
 
そう、この時は元気だったが・・・いま思えば、なんか、気負いすぎていたと思う。
「そこでちゃんと休め自分」ってあのときの自分に言ってあげたい・・・。

 
日差しは厳しく、かなり暑い日。駅から家までは徒歩10分程度。炎天下、カートを引いて、ごろごろと向かい、最後は坂を上ってたどり着く「我が家」
 
汗を流しながらたどり着いた「我が家」の庭は、予想通り、背丈をはるかに超える草に埋もれ、草原というよりは森林のようになっていた。
 
 
この写真右手の「離れ」にたどり着くためには、まず、木を切らないといけない。
 
軍手をはめ、飛行機で没収されずに済んだ「はさみ」で草を切りながら、「離れ」までの通り道を作った。そして、足元にマムシやムカデがいるのではないかと警戒しながら、縁側に向かった。
 
よいしょと縁側に上り、常に開いている離れのガラス戸を横に引いた。
 
前回、片づけに来た時と変わらない風景がそこにある・・・はずなのだが、なぜか蔓草が室内の戸棚へと延び、つるを巻いてぐんぐん育っているのが見えた。
 
どこから入ってきたのかわからない。生命力はおそろしいものだ。
 
縁側は少し高さがある。室内にある「卓袱台」などを庭に出して、台にしようとした。
 
 
その作業の途中、縁側から不用意に降りたとき、不安定な石の上に右足をついてしまい、転倒してしまった。
 
草むらにしりもちをつき、右足首をひねった。
 
足をひねったことよりも草むらに投げ出された髪や衣類に虫がひっついていないかと、そんなことが気になり、パンパンと草をはらう。実際、このときは足は痛くなかったのだ。
 
暑い中、最後の片づけを行っているうち15時になり、業者さんが家の前まで車で来てくれた。能力の高そうな若い方で、会話が弾む。「台風が来る前にやりましょう。もう、急ぎで。」とせかされる。
 
見積もりでは母屋の撤去だけをお願いしたが、それにプラスして、離れの建物の中身をすべて廃棄し、庭も綺麗にしていただきたいとお願いをする。また、入り口付近の枯れ井戸は撤去することにした。そのぶん間口が広まり、重機が入りやすくなると言われたからである。当然ながら見積もりが増えるが、それも行ってくれることになった。
 
いよいよ、撤去への道が始まる。
 
わたしの一存で、歴史あるものたちがどんどん撤去されてゆく。
 
じくじくと刺すような日差しのもとで、立ち話をしたあと、業者さんが「ホテルまでお送りしましょうか?」と言ってくれたのだが、「いや、もう少し片付けがあるので・・・」と断ってしまった。

これは良くない選択だった。
休むことも、大事な仕事なのだ。
 
この時、ちゃんとホテルに行って休んでいれば、その後苦労しないで済んだだろう。
 

 
さあ、片づけだ。
 
トイレも使えない猛暑の家のなか、ドリンクも飲まずに最後の片づけを行う。3度目の、そして最後の片づけで、唯一にして最大の気になる荷物があった・・・

 

それは「パソコン(3台)」。

 

これはやはり東京に送るべきだろうなと思い、まとめてファミリーマートで送った。送料は1950円であった。

 

 

 

宅急便のなかに一緒に突っ込んだ懐中電灯がふと灯りを放った。




 
 
崩壊寸前の母屋にはもう立ち入らない。
壊れそうな玄関には黒い大きな虫がおり、ぶんぶん飛びまわる羽音が聞こえてきた。
撤去工事が決まった母屋を最後まで守るかのようだった。
 
 
「離れ」も、中はゴミだらけで、物静かな昆虫が息をひそめ、つる草だけが繁殖するような、あまりに不健康な空間であった。
 
ここにずっと居ると病む。そう思った。
 
ぷーんと耳元でうなる虫たちに悩まされたが、虫よけパウダーが役立った。
近づく虫。
はねつける自分。
虫よけパウダーをシューっと出しすぎて、むせかえる自分。
そのたびに具合が悪くなる。
汗がどんどん出ているのに、この家のトイレは使えないからと、飲み物を飲んでない。それが体に良くないことは理解していたが、ひとまず、家の片づけをしなくては・・・と、そればかり考えていた・・・
 
がんばれ。
 
がんばれ。
 
・・・いや、誰もがんばることなど要求していなかったのに、勝手に頑張って、消耗して、この相続には何か意味があるのだろうか・・・
 
いや、さっきの業者さんとの話では、駐車場ができるって!?車が停まれるってさ!・・・
 
それが何だというのだ・・・
 
もう休みたい、もうこの事業の全てを捨ててしまいたいよ、さっき転倒したときに袖口についた草たちは、まるで貧乏くじ。おじいちゃん、もう全て捨ててしまいたいよ・・・わたしの乏しい老後資金を痩せ細らせるこの事業から・・・
 
 
もとより逃避だった、串間の相続。
1回目に来たときは初冬の街、広々とした風景が新鮮だった・・・。
だけど3度目は夏の街、猛暑に心身を搾り取られ、「田舎ゆえの新鮮さ」などを感じる余裕が失われた自分がいる。
 
おろかだ。自分の覚悟はその程度だったのか・・・
 
「いよっ、相続人!」
 
甘いマスクのおじいちゃんが笑顔で背中をたたく。
 
そうだ、覚悟はなくても責任はある。がんばれ自分。
 
(・・・わたし50代なんだけど、地域の福祉の輪のなかではなぜか若者扱いなのよ・・・)
 
愚痴ともつかぬ独り言を放ちながら、最後の片づけを終わらせる。
 

 
6月の九州の18時は、まだまだ昼間のような明るさである。日焼けを気にしながらホテルへと向かったが、そのとき右足が痛むことに気づいた。体調も悪い。
 
まずいな・・・。
 
夕食の買い出しの前に、少し横になる。
 
 
少し休んだあと、ニシムタに買い物にゆく。痛む足にブーツはきついので、ニシムタで運動靴を買った。
 
 
また、シャツの替えもなかったのでシャツを買った。夕食用に、刺身、トマト、ドレッシングも買った。
 
ニシムタは大きなお店で、要するになんでも売っているのだ。
 
 
夜の8時になっても九州の夏はまだどこかに昼の名残りが残っていたが、さすがに涼しくなってきた。
 
買い出しの帰り、夜の道を歩く高齢の女性がいた。小さな灯りを握り、すたすた歩いている。都内では灯りを持って歩くのは多摩川サイクリングロードくらいであるので、興味深く思ったが、そういえばこの街の歩道は暗い。
 
ずいぶん遠くに来てしまった。ここを故郷に出来るのだろうか?
 
痛む足、頭痛、この体調不良・・・
 
先祖一同に「わかったからもう休め」と言われているようだ。
 
明日は温泉に行ってのんびりしようと考え、早めに就寝した。

 

 
翌朝目覚めると、ひねった右足の痛みは薄らいでいたが、頭痛と吐き気はひどくなっていた。
いつものあれだ。40代になってから、吐き気・げっぷを伴う片頭痛は持病となっていた。

バファリンを飲み、あまり効果がみられないので、胃腸薬も飲んだ。
 

 
3度目の串間の2日目の予定は、以下のようである。
8時33分 「よかバス」で串間駅から串間温泉へ 
11時26分「よかバス」で串間温泉から串間駅に戻る
11時55分 日南線志布志駅 
13時59分 バスで志布志駅から鹿児島空港

 

飛行機は遅い時間だが、体調が悪いときは早く空港にたどり着きたい。もはや「我が家」に立ち寄る予定も入れず、温泉で回復を期待しつつ、早めに鹿児島空港に行こうと考えた・・・

 

 

・・・ごめんね「我が家」・・・さようなら。

・・・建っている母屋を見ることは・・・もう無いのか・・・。

 
 
 
東京への帰路がフラフラな足取りで始まった。
こういう状況のときは、ものを見るのがつらい。
薄目になって、歯磨きをし、髪を整える。もちろん朝食などをいただく気にはならない・・・弁当箱の中には、例のザラザラしたシリアルが入っていたが見ると吐き気がするばかりで食べる気にならず・・・ああ、なんであんなものを持ってきてしまったのだ!
 
マスクで呼吸がさまたげられるのがしんどく、帽子のあご紐もつらい。ノーマスクでホテルを出て、ヨレヨレと歩きながらたどり着いた駅の待合室で温泉行きの「よかバス」を待った。
 
乗り込んだ「よかバス」からは新しくきれいなカフェがみえた。
マスコミの情報では、「東京一極集中、地方には何もない」という論調もあるが、この串間が新しい街へと変わりつつある息吹がわたしには感じられた。欲を掻き立てるような街に戻りたくない、結婚・恋愛相談所の看板が無い街で暮らしたい、うっぷ、吐き気が治らない。

 

「よかバス」はすぐに串間温泉に到着した。

 

 
串間温泉で、さっそく温泉に入る。500円とお安く、素晴らしい施設である。
寝そべるタイプの湯船で横になると、茂れる木々の枝先で黒い蝶々が戯れているのをみた。うーっぷ、げっぷ。森の生き物はめまいに酔ったりするんだろうか?
 
大好きな温泉でも吐き気は収まらず、だれもいない脱衣所の奥で横になり、どうしてこんなことになってしまったんだと嘆く・・・昨日、ドリンクも飲まずに片づけをしたことで、熱中症になってしまったのか・・・早く治らないかなぁ・・・。
 
しかし自分はケチなので、クーポンを無駄にしてはならぬと、よれよれとみやげものコーナーに行った。
中学生男子数名とすれ違う。キビキビと挨拶をしてくれた。職場体験だろうか。
その従順な男子たちの声が耳のなかで反響する。
 
自分が学生の頃を思い出す。甘ったれな末っ子は朝が弱く、与えられるばかりの学びに感謝せず、第2次世界大戦に向かう世界史の頃、低血圧の海のなかで睡眠に溺れていたことを、めまいと共に思い出す。
 
 
少し意識が薄らぐ。うつらうつら、何か不思議な夢をみていた。関係のない友人たちがわらわらと出てきては消えた。風景に夢がさしはさまれ、帰路は夢か現実か、よくわからない。
 
「・・・え、カラスには白いのもあるの?」
 
「・・・Aという治療方法はBに代わってゆくの?」
 
夢のなかでそんな話をしていた。意味がわからない。
 
 
温泉に浸かったあとは、上記のスケジュール通り、串間駅から日南線志布志駅に向かったが、めまいの只中であり、ほとんど写真を撮っていない。
 
帰り道の移動もつねに断続的な眠りの中にいた。日南線で、志布志駅の待合室で、夢を見た。まだ吐き気の収まらぬ志布志駅の待合室で目を閉じると、燕が左右に飛び交っていた。巣があるらしい。
 
グッタリしているわたしのことなど気にせず近くを飛び交う燕。
 
かろうじて撮った写真はこれである。
 
 
 
そのとき、ひらめいた言葉がある。
 
「船には乗るな!」
 
・・・そうだ、志布志といえばフェリー。わたしは、今後も行くであろう志布志に、大阪からフェリーで行くのも良いなと思っていたのだ・・・・が、
 
「他の人がフェリーに乗って楽しめていたとしても、お前は無理だ。船に乗ってはならない。」
 
それは天からのメッセージだった。
乗り物に酔いやすい、すぐにパニックになる、自分には弱点が多いのだということを、先祖は戒めてくれたのだ。無理するな、無理するな。それを教えるために、わたしにめまい・吐き気が与えられたのだ。
 
・・・うっぷ、はい、わかりました・・・・(ー_ー)うぅ。
 
・・・無力を突き付けられるって・・・素敵(ー_ー)うぅ。
 
志布志から鹿児島空港行きのバスのなかで、また眠る。森の中で誰かと笑顔で過ごしていた、あれは誰との思い出だったろう、福山高校前で3人の高校生が乗ってきたのに気づいた直後、また眠りに入る。山道はカーブしながら上下する。霧島から、風景が都会らしくなってきた。国分を経て、鹿児島空港に到着した。
 
 
 
当初の予定より早いバスで来たので、鹿児島空港では時間が余った。
 
やっぱりどこかで休みたいなと思い、「ラウンジ」はどうかと思ったが、「ラウンジ」なる場所は敷居が高いというか自分が行ってもよい場所なのかどうか自信がなかった。
 
 
空港のロビーの片隅の席でずっと眠っていた。ぼんやりした意識のなかで、土産物屋のディスプレイは魅力的だなと感じていた。旅の子どもがアンパンマンのぬいぐるみをねだって、父の肩車でほだされてゆく。
 
 
空港で休んでいるうちにだいぶ回復してきたので、パソコンなどを充電できるロイヤルホストへ行った。この日初めての食事はヨーグルトパフェ。甘い点滴のようで、元気が出てきた。
このあたりでやっとめまいから解放されてきたので、この日初めてパソコンを開いて文書を入力することができた。
 
鹿児島空港で土産を買おうと思い、「かるかん」などを買った。鹿児島の土産に描かれたキャラクターは西郷さんばかりで、西郷さんが愛されているようであった。
 
 
空港では、最終コールがひっきりなしに流れていた。
どこかの綾子さんが、乗る予定の飛行機の保安検査がもう締め切られますとしきりに呼び出されていた。野球帽の子供が「あやこさん呼ばれてるよ」と母親に告げていた。
 
帰りの飛行機はスカイマーク
SKY308便。20時10分発、
4番搭乗口から乗り込んだ。
どうやら無事に東京に戻れそうだ。
 
青い日暮れに見送られ、さようなら九州、So long「我が家」
 
また行きますね、必ず・・・。
 

以上が、三度目の串間の旅の記録である。
 
この旅でわたしが得たギフトは、「旅先の体調不良はつらくて不安だ」ということ。
 
「病気のひとはとてもつらい」のだと、そんな当たり前のことに気づかされた。
知っている人でも、知らない人でも、つらそうな人がいたら症状を思いやってさしあげたい。そう心に誓った。

 

自らの弱さや無力に気づくことは、なんて素晴らしいことだろう。旅はいつも素晴らしいことを教えてくれる。

 

そして翌日には汗だくの衣類とパソコン3台が宅急便で届いた。

 

 

(おわり)

 

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記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。

 

 

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