今や日本が経済・技術の面ですぐれていることは世界中の認めるところとなりました。世界がよく理解できないでいることは、その日本がいかなる価値観に基いて、どのような世界を望ましいと考えているのか、と言うことであり、そこが不明なまま経済ばかり大きくなると世界諸国の不安を募らせることになると思います。そのような不安を除くためには、日本がしなければならないことはいろいろありますが、その基礎的な要件が文化交流であることはまちがいないと思いますので、
(「JJC会報誌 ジャカルタ 創立20周年記念号」 p34、1991)
わたしは小学校時代の4年間をインドネシア・ジャカルタで過ごした。
といっても、それは日本人として特別な経験ではない。なぜなら、ジャカルタでも実質的には日本人のコミュニティのなかで暮らしていたからである。
日本人学校も数百人の生徒がおり、日本語で生活することができた。
ただし、住んでいるのはインドネシアという外国である。そこが危険な国で警戒しなくてはいけないという忠告は、幼いわたしの耳に届いた。ひとりで外を歩かないこと、移動は運転手の車ですること、家の窓には鉄格子、夜の戸締り、カギかけはしっかり、そのように警戒する意識は、じつは、今も抜けない。
鉄格子のある窓。
ジャカルタの暮らしのなかで「現地の人」と親しくなることは推奨されていなかった。見下す意識というよりは、そこに「現地の人」がいるということは知識であり絵画や写真のように平面的な情報であった。そこに人間がいるという感覚がなかった、あるいは、貧しい人がいるという意識だけはあったかもしれない。分厚い幕が下ろされた向こうに住む、それは違う国の人であった。そして「現地の人」と関わり合いにならないことはジャカルタに住む大人たちが子供たちに推奨してきたことだった。よって、お手伝いさんや運転手さんを除く「現地の人」とは、何一つ関わり合いを持たぬままの4年間だった。
いま、手元に「ジャカルタ・ジャパン・クラブ」の会報誌がある。1991年に発行されたものだ。巻頭の座談会に、興味深い言葉があった。
われわれ日本人も昔はこちらの人との交流なんかを考える余裕がなく、稼げ稼げとばかりに、今から考えるとちょっと、というところがたくさんあったと、ある商社の方もいっていました。
(「JJC会報誌 ジャカルタ 創立20周年記念号」 p34)
そして中1のときに帰国した。ジャカルタ帰りで成績が良かったわたしは男子のからかいの的になったものだった。インドネシアとインドを混同する男子から侮蔑の言葉を浴びせられたときに脳裏に浮かんだものは、ジャカルタはあなたが思うような国じゃないということ、火炎樹の赤に樹々の緑、パパイヤの手触りと透明な珊瑚礁、逆説的にあの国の豊かさを想うことになった。
ジャカルタで暮らした経験は、羽のように軽く吹き飛ばされていった。
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そしていま、自分が「現地の人」なんだなと思うことが増えた。
知人が就労継続支援B型施設を始めるというので、スタッフになったことがあった。あまり良いスタッフではなかったと思うが、遅刻もせずに通っていた。
ある日、施設長が、わたしに封筒を渡した。
「文字が多くて難しそうなアンケートだから、松岡さん、よろしくね。」
封筒の表紙には「東京大学大学院医学系研究科精神保健学分野」という文字がみえた。わたしの出身研究室である。大学院生が博士論文を書くためのアンケートのようだった。カラフルな紙に印刷されたアンケート。同封のボールペン。ホチキス留めされたウラオモテ数ページにわたる設問たちはわたしにとってはなじみのある用語たちだった。忙しい時間のあいまに適当に答え、返信用の封にのりを着けた。そして思った
ーこのアンケートで博士論文を書く後輩は、就労継続支援B型施設に勤務することはないのだろうなー
そのとき、ふと、「現地の人」のことを思い出した。現地の人が、わたしの知らないある文化のなかで育ち、ものを食べ、生きていること。イスラム教の戒律を守り、断食明けのレバランにはけたたましい花火を鳴らし、真夜中に車のライトが走り回る。そのように生きている他者と、他者のいる場所のことを。
「現地の人」のすがたはみえない。ただこの場所を利用したいひとがやってきて、自分のやりたいことをやって、お金を払う。チャリン。チカラがあるひと、お金があるひとが、痩せた行為や目的のためにやってきて、またすぐに去ってゆく、チャリン。その足取りは力強いね、さすがだね、いろんな荷物を置いてゆくね、だけど価値感はよくわからない、チャリン、こっちのほうを見てはいないね、きっとこっちが見えないのだね、鬼のように警戒だけされて、いいんだ、それで、いいんだ。もう期待などするものか。
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