駅員観察日記(はてな編)

◆ポエトリーアーティスト松岡宮が描く東京の風景たち◆このブログはアクセスカウント以外のアクセス解析をいたしません◆

「 私 は 女 優 」

「とえ~い」です。つまらなそうにツボめた皆様の唇が、とてもいいです。

今日は大学の同級生の女性たちと飲み会のようなものでした。特急カニカニ、いただきました。サンマもおいしかったです。所属のないわたしは、可視化されているのだろうかと、その共通するステージにいるんだろうかと時々不安になりましたが、みなさん仲間に入れてくださって、ありがとうでした。

ときどき、自分が透明人間になったような気がして、あるいはネジレの位置にでもいるような気がして、・・・・・・ずいぶんいろんなものを棄てたり無くしたりしてしまったものだなと実感したり、共通言語を探すのに苦労したりします。

「そこにいる」ということと、「そこにいない」ということを、最近よく考えます。外見で人を判断する、ということを、よく考えます。外見や装いや所属が内面や行動にもたらす変化について、よく考えます。

演じる、って、すてきなことですね。

「私は女優」ってつぶやいてみるのです。そうすると、やっとのことで役割に期待されるであろう振る舞いが、できるような、気がするのです。小さい頃から、いろいろと教え込まされてきたのは、いかに女優になるべきか、いかに演じるか、という教育だったのかもしれません。

ところで、わたしは愛されたい。何よりも、愛されたい。あまり愛されない子供だったけど、今からでも遅くない、ジャムでべちょべちょに愛されたい。小またを開いて、大またも開いて、愛されたい。そんなときには「私は女優」とかつぶやいて、がんばって仕事をこなすのです。女優になれば、「いるけれどいない人」のように扱われないですむでしょうか。この世界が何重にも重なっていて、そのどのあたりに住み着けばいいのかよくわからないときに、私は女優だ、私は女優だとつぶやいて、あちこち移り住んだりして、回遊魚、いいのかな?

自分の地図の正しさというものが本当に疑わしい日には、私は女優、誰かに進路をあずけてみたい・・・間違ったら、仮面をぽいと棄ててしまえばいい・・・

乗り込んだバスの終点は遠く、自分の降りる場所はよくわからない。

だけど運転手を信じてGO!

ひとを愛し・愛される、それしか、答えはないのでしょう。