駅員観察日記(はてな編)

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マイケル・ファレル氏を囲む会

雪の日曜日、六本木の国際文化会館にて行われた、「マイケル・ファレル氏を囲む会」にひっそりと出席させていただきました。

お世話になっている詩人のヤリタミサコさんのお誘いであります。

ファレル氏は、オーストラリアの詩人。詩人であるばかりでなく、オーストラリアの詩の事情にも詳しいようでした。

ファレル氏は40代ですが、大学院で詩を勉強しているとのこと、そのくらいの年齢で学ぶのは別に珍しくないとのことです。そして、メルボルン大学のアジアリンクというプログラムを用いて、日本にはじめていらしたとのことでした。

わたしは、自己紹介の紙を持って行きました。そこには、自分が駅員をネタに詩を書いている旨と、それから写真を掲載しておきました。すると、ファレル氏は、「この写真は地下鉄サリン事件か?」とお尋ねになったようでした(通訳さんによれば)。東京の人だって忘れてしまいそうな(いえ、けっして忘れることはありませんが)地下鉄サリン事件が、オーストラリアの人にとっては東京のアイコンのように思い出されるのでしょうか。緑色の駅員はもういないのですよ・・・・サリン事件がいかにショッキングだったか、あらためて思い出しました。

ファレル氏は、実験的な手法を用いて作品を作るようで、たとえばサイコロで字の数やシラブルをあらかじめ決めて、そこに言葉のフラグメンツをはめて行くと、うまく改行できない部分が出てくるのですがそれを楽しんだり、記号を用いたり。あるいは、元詩の、あるアルファベットを別のものに置き換えた、もはや実在語ではないものによる作品であったり。

そのような実験的な詩の世界に触れると、わたしたちの意思のようにみえるものが、いかに意思とは無関係に行われているのか、実感する気がします。

たとえば携帯電話で詩を読むときは、すごく頻繁に改行が起こったりします。そんなふうに、どこでどんなふうに作品が味わわれるのか、は、作者にはコントロールできないことです。ファレル氏のような実験的な作品は、意思なるものを信じないという意思を感じました。ストイックで謙虚だな、とも感じました。

漫画にも似た、とても素晴らしい最新の詩集をゲットしました。言葉が少なくて、絵の描線で感じることの出来る詩集、これはかなりお勧めです。リーディングイベントがあったら持って行こうかしら・・・。

でもやはり、英会話が出来ないってのはかなり悔しかったです。直接話が出来ればなあ・・・。

家に帰ってからも・・・ああこれがエンカレッジメントというのか・・・・すべての言葉がこちらに向かって声をあげているような、いや、言葉だけじゃなくて、音とか、事象が、訴えかけているような気分になりました。

わたしは創作にしても何にしても、あまり強い意志がないのですが、どんな小さな事も、そこには何かがあるんだなあと、大事にしなくてはいけないな、と感じました。ポエトリーな世界を知らなかったら、わたしはどんなに狭い世界の人間だったことだろう・・・・。詩の世界に少しだけ足を踏み入れたこと、感謝したい気分です。

そういえばこの間ミーティングしたドクター(50代)は、その日、診察でいろいろ大変なことがあったようなのですが、「でもそういうことがないと、本当に一年があっという間に過ぎてしまう。今日こういう問題があれば、そういう日があったとあとで思い出せるから、いいのです」とおっしゃっていました。

というわけで、

おやつ食べて

ねるねる。