松岡宮 詩と音楽

あなたのことばを歌にします

心血注いで/膣は穴じゃない。

中止になった海老名のフリマでは、やや地元(?)、母校の桐蔭学園校歌を歌う予定でした。

 

加藤楸邨先生の作詞。

春夏秋冬の構成になっている素晴らしい詩。

 

ほのぼのと萌えいでし草・・・と柔らかに始まるその詩は

2番のくろがね、

3番の阿夫利嶺、という単語で力強さを加え、

最後の4番「寒き 厳しき 果てしなき 世の荒き道つらぬきて この冴ゆるもの 身をひたせ」では思わず涙してしまう・・・。

若人よ枝を交わして競いあえ、そして冴えあるもの、その冷たき水に身をひたせ、という、厳しくも暖かい励まし。

学生だった頃、行事では1番と4番しか歌わなかったのですが、1~4まで続けてひとつの作品になる、すばらしい校歌だなと思います。

 

そんな桐蔭学園の先輩である、デーモン小暮閣下のこの有名な言葉を、ふと思い出しました。

 

attrip.jp

 

この議論はずっと前から見ており、初期は「行けないけど頑張って、という言葉は、わざわざ励ましを伝えているのだからいいじゃないか」と思っていました。

 

でも今は、デーモン閣下の言いたいことがよくわかります。

その言葉だけを伝えようとする方の思いがしんどいということを・・・。

 

この文中にある

「心血を注いで」

という言葉に、ぐぐっと来てしまいました。

 

そうなんだ・・・。

表現者は心血を注いでライブをしたり音源を作ったりしているのだ・・・。

 

リスナーの方にとっては、そんなことを言われても困るかもしれませんし、しらけてしまうかもしれませんね。

「作品は自分のいのちなんです」と言えば、お客さんをしらけさせ、遠ざけ、自分を傷つけてしまいます・・・

 

だから上の記事の

「心血を注いで」

に感動したのです・・・ああ、そう言っても良かったんだ・・・と・・・。

 

ほんとうに、創作する人は、みんな作品に心血を注いでいるのだと思います。

 

聴き手として、そんな思いを受け止められたら・・・。

 

1億総表現者の時代、すべてを受け止めることは出来ませんが、生きる世界を小さくしながら、自分も誰かの表現をそのようなものとして丁寧に受け止められたらいいな・・・桐蔭学園校歌にこめられた思いが、今更、じんわりと伝わるみたいに。

 

・・・そういえば聖飢魔Ⅱの「ステンレスナイト」のレコード持っていたなぁ・・・どこやったかしら。

いちばん好きな歌は「ファラオのように」。

デーモンのソロアルバム「小暮伝衛門」も大好きで・・・かなり暗記して歌えます!

 

地上絵・・・

アクエリアス・・・

・・・諸行無常のむせび泣く鐘のこーえ-!

 

・・・また聴きたい。

 

 

「穴モテ」という言葉を教えられて、思ったこと・・・

 

・・・膣は穴じゃない。(←そこか?)

 

・・・うん、保健学科卒だからね・・・。

 

 

 

膣は穴じゃない

日頃、閉じている扉の向こうにあるものは

それは穴じゃない

迷いこんだ樹林の枝を入れるべき穴はない

天空に唾するとき岩の戸は閉ざされ空が落ちる

雷鳴 豪雨の闇の中 

あれは穴じゃなかったと知るとき

はじめてひらくひだがある

急峻の水源から落ちる水は赤い

赤い靴履いてた女の子

とどまることを知らぬ清水は湾へと注ぎこみ異国の波打ち際で歌うジ・アース

それは穴じゃなかった

ふくらみ 動き ぬかるむ生き物の名はザ・シー 

循環する心血を注がれ 終わらない瞬間を刻み続ける

リズムヶ浦の大地だったのです

 

 

海老名のフリマは雨天中止

いま、少し気持ちが弱くなっているので、あまりツイッター(X)にログインしておりません・・・。

たまにログインしたら、DMで連絡など来ていたりして、ご迷惑をおかけします。

 

ツイッターのアカウント、削除しました。

 

ご連絡はメールでお願いします。

 

 

 

相鉄のソウは、相模のサ。

相鉄はソウ で JR相模線は サ。

JR相模線の このさみし気なたたずまい・・・。中学生のころの心象風景だ。

軽井沢シンドローム読んでいたときの荒涼とした風景だ。

そう、郊外そのものだ。

振り返れば、高層ビルが建築されており、それは令和の胎動であるのだ。

 

どしゃぶりの雨の朝。

東急の、新横浜まで急行だった列車が、新横浜から相鉄線内各駅停車となって直通する。

あたかも相鉄の権力を示すように、東急から来たヤツを格下げするのは、相鉄のほうがエライのか・・・・

と、そんな気分になる。

 

うちから直通列車でたどりついた海老名は・・・やはり、どしゃぶりの雨。

これはもう中止だろうと思ったが、はじめてのフリマで 中止連絡の勝手がわからず・・・大粒の雨のなか、ひとりで途方に暮れていた・・・。

 

実はツイッターにログインして主催のツイッターを見なくてはいけなかったのだが、上記のような理由でログインしておらず・・・中止だと知るまで右往左往してしまった。

メールでの案内をよく見ない自分が悪いのだが・・・なんか、間がわるい日だった。

 

そうにゃんです。

けっきょく、来て、すぐに、帰ることに・・・。

 

 

 

大荷物をかついで雨のなか、海老名からまた事務所へとんぼ帰り。

自分のアホさ加減に泣きそうな気分だったが、ふと見渡せば、海老名の街は懐かしい相模の風景。

都内とはやはり違う、緑濃い風景が広がっていた。

雨雲で見えないけれど西には阿夫利嶺が見守っている。

厚木に住む桐蔭生だったわたしにとって、海老名は故郷のような街。

いまや本厚木よりも大都会になり厚木人も買い物に行くという海老名、友人が結婚して家を買ったらしい海老名、そんな変貌いちじるしい海老名のいまを、目に焼き付けることができた。

 

なにより気づいたことは、駅員の制服のかっこよさ。

紺色の駅員が都会の風味でそこかしこに立ち、駅を守る。

かつての、不思議な色の制服を来た駅員はいない。いかにも映画などに出てきそうな駅員らしい制服、紺色に袖口のゴールドのラインがきらり輝く駅員がそこにいるのでした。

・・・あ、そうか、駅員らしい駅員が、いま、ほとんど居ないから、だから、普通に駅員が駅員ダンスを踊っているだけでも新鮮に思えたのかもしれない・・・・。

 

駅員は銀の魚たち。

駅員の背は青魚、ドコサヘキサ、ここさ!

駅員たちがエビの水槽を泳ぐ、みごとなクロール。

雨風に、サイドベンツがはためく、それは背びれ。

身をひるがえして列車が滑り込むたびにその水辺では鮎が跳ねる。

その背中のまっすぐな線のうえ、相模川の鮎が跳ねる、雨がぴちょんと落ちて、またはじける。

エビの水槽はいつしか相模川になり、なぜか新宿や渋谷へ注ぎ込まれる。

「全世界海老名化計画」

エビの野望は洪水だ。

紺色の形よい帽子、ビニールをしっかりとかけて、雨をはじく駅員たち。

紺色の群魚はラインダンスを行い、小田急と並走しながら走る流れを見送る・・・

・・・雨だれのガラス窓、並走する小田急がみえる・・・

・・・もう小田急に敗けていないぞ相鉄は!

リヴァー!

わたしはその四角形に積まれて運ばれながら、相鉄の変遷を感慨深く思った。

おれたちは都会につながっている路線のひとつなのだ

伸びゆく棒のさきっぽには、こいのぼり、はたはた、はためく、横浜ネイビーの色をして。

 

 

・・・そう、横浜ネイビーの列車は、クロスシート

 

内装の色がモノトーンで、かっこいい電車だった。

 

 

海老名で不思議だったのは「東急に直通する旨の案内」が無かったことである。

(JRに直通する電車の案内はあった。)

新横浜までは相鉄線なので、東急とつながっているという感じではないのかもしれないが、海老名では「東 急」の2文字をあまり見なかったなぁと・・・わたしが見つけられなかったせいかもしれないが・・・。

 

海老名から出る列車は多方面に行く可能性があるので、頭が混乱する・・・

 

・・・あれ、JR埼京線直通は、新横浜に行くのだったかな・・・?

 

土地勘あるほうのわたしでも、JR直通と新横浜線直通と、似て非なるルートを走るので混乱してしまった。

 

以下の図を、しみじみと拝見し、そして、答えが、わかった。

 

 

JR直通は、新横浜を通らない(答え)。

 

思ったこと2つ

 

1)武蔵小杉が2つある!(※時間はかかりますが、互いに乗り換えできます)

2)西谷が出世駅になった。

 

昭和の時代から乗っているわたしにとって、相鉄線はほんとに変化が激しい。

横浜―海老名を結ぶ、神奈川の地味な一路線(・・・いずみ野線も、あったか・・・)

それが今じゃ、新幹線接続路線、渋谷へ新宿へ向かう路線、西へ東へ・・・というより東へ北へ。

ハザーヨッコク、とつぶやけば、なんとなくイギリスの田舎の駅のよう。

相鉄のソウは、相模のサ。

大山はあちら、両親のお墓のほうに、手を合わせ・・・

相模地区の鉄道の発展を目の当たりに出来た、海老名への小さな旅だった。

 

 

フリマ中止になり、戻る相鉄の揺らぎのなかで、つくづく、自分はものを売るのが上手くないな・・と自己嫌悪してしまい・・・ヤケをおこしてインスタ始めてしまった。

 

詩人仲間の木葉ゆりさんの詩集「アーベントイアー」も委託され、事務所などに置いてありますが・・・詩を売るノウハウが自分になくて申し訳ない限り。

「ねー奥さん←、フリマで詩集売ろうと思ったけど中止になっちゃった・・・」なんてメールしたりしました。

 

詩って、ときどき、いいなと思うときがありますよね。

中学生の頃、塾で国語の勉強していたとき、詩のセクションがとても好きだったものでした。その時もっとも好きだった詩は金子光晴の「さくらふぶき」だったのですが、がんじがらめの日常のなかで、詩の言葉がふっと救いになること、ありますね。

ゆりちゃん(←なれなれしい)の詩はそんな感じの、明るさもあり、決めつけることのないような、抜け道のあるような言葉たちだと思います。

 

解説つきの販売ページ、こちらです。

 

383.thebase.in

 

BASEでは、自分のCDや手作り帽子などはこちらで販売しています・・・へんなバレッタもあるのでよかったらみてみてください★

 

383.thebase.in

 

つくづく、ものを売るのがうまくないことを申し訳なく思う。

作品を売るのも対人コミュニケーション、誘われれば受け、いろんな会合に顔を出して、人たらしをして・・・自分にそんな技量がないことが心苦しい。自分って駄目だな。「東京フリマ日記」ではそれをユーモラスに描くことが出来たのに、いま、あんまり笑えない・・・他人からの誘いや宣伝がしんどく、他人の成功に嫉妬し、他人を思いやる余裕がなくなり、手伝いを頼まれても動けなくなってしまう・・・。

 

だけど自分が売れないと思うのも自分の「認知の歪み」であり、思い起こせばたくさんの方がライブに来て下さって、作品を聴いて下さって、CDも買って下さったことを思い出す・・・・「”針金で出来たお母さん”が好き」「”針金で出来たお母さん”はすごい曲」って幾人かの方が褒めて下さったの思い出した・・・というか褒められるのその歌ばかりだナ・・・・みなさんに、ありがとう・・・。

 

「自分がしっかり支えられていないと、人を支えることはできない」

支援の教科書につねに書いてある、そんなことを思い出します。

 

ああ・・・だから、売れないアーティスト同士が売れようとしてグループを作ると、うまくいかないことが多いのか・・・。

 

自分がアーティストとして自信がないのに、委託販売とかするのは、時期尚早というか、実力に見合わぬことだったよね・・・ごめんなさいね・・・と、BASEで委託販売している、ゆりちゃん、青条さん、絵描きのひろみさんに言うのですが、みなさん「売れなくてもいいですよー、おいて下さることが嬉しいですよー」と言ってくれて・・・涙。

自分に必要なのは、他人へのそんな信頼と、感謝なのかもしれません。

 

そんな出会いにも、こんな文章読んで下さっている方にも、ほんと、感謝です。

 

(↑)

そしてこんなふうなアレコレを書いた日本評論社「まちにとけこむ公認心理師」、10月末に発売です。

第7章を担当。

自分は公認心理師としてだめです、だめだったです、と懺悔しています。

よかったら読んでみてくださいね。

 

 

 

日本画家・高田先生のアトリエ訪問

この記事は、多方面でご活躍中の日本画家・高田先生のアトリエに訪問して楽しかった記録である。

 

 

近年、ときどき参加させていただいている、原宿クロコダイルの「ウクレレエイド」。

 

ウクレレを中心に、ピアノ、ヴァイオリン、ギター、などなど・・・みんなとても上手なヴェテラン演奏者ばかり。プロ演奏家の方、楽器を教える立場の人も多いようである。

 

奇数月はウクレレ以外の人も参加できるということで、最初はおっかなびっくり・・・最近は自分ワールドを表現しつくして・・・

 

・・・なんといってもクロコダイルは最高の音響。爆音を出せる素晴らしいお店・・・ここで自分のオケを出し尽くさぬことには、もったいない!

 

音響のお兄さんも、優しくて、「今日は何やるの?」って言ってくれるのが社交辞令でも嬉しい。

コロナ前からの参加なので、もう足掛け5年以上、参加していることになる。

 

そして、森社長と製作したCD「Limited Express 383(Candy Recorder)」も販売させていただいている。このアルバムは、森社長と喧々諤々、アレンジしなおし、歌詞の書き直しも命じられたりしながら、プロのディレクションとレコーディングとミキシング、プロのアートワーク、本当に時間と手間をかけて等々力のスタジオで製作してくださった素晴らしいアルバムなのだ。

 

LimitedExpress383

LimitedExpress383

  • アーティスト:松岡宮
  • Candy Recorder
Amazon

 

・・・どんなに素晴らしくとも、無名のわたしのCDを聴いてくれる方は少ない。

 

だが、わたしのこのCDをまっさきに購入してくれたのが、日本画家の大家・高田先生であった。

 

そして、「僕のアトリエに遊びにおいでよ~」と言って下さった。

 

・・・ああ、有難うございます・・・でもわたし、画家でもないし、美術には疎いのでお話をきいてもチンプンカンプンなのでは・・・

 

と、最初は社交辞令かと思ったが、わりと自分の家から行きやすく、なじみのある場所にそのアトリエはあるそうで、少し気になっていた。その後わたしが、たまたま仕事場の近くでやっていた高田先生の「文京美術会展」を観にいったりすることで芸術作品に関する共通の話題が増え、次にクロコダイルで逢った時に、ふたたび「ほんとにアトリエにおいでよ!いつにする?」と言って下さったので、お伺いさせていただくことになった。

 

 

場所は都内の高級住宅地。先生はメールとかSNSはなさらないようで、携帯電話もしくはショートメッセージでやりとりの予定。待ち合わせは駅の改札。小さな駅のようで行き来する人が多い。車いすでエレベーターを待つ人もいた。約束の時間通りに先生はいらしてくださった。

 

地下の改札から、階段をよっこらしょと登る。国道246に出る。

 

三茶方面にテクテク歩き、そこから少し入ると、住宅や英会話カフェなどが見えた。品がよさそうな街。こんなところに住んでいたら便利だろうなぁと思いつつ坂を登る。家々の軒先に木々が茂り、細い道に車がゆっくり走るので身をひるがえす・・・危ない危ない、ここは都会。

 

 

 

白く素敵な建物があった。そこで先生が立ち止まられたので、ここがアトリエかな?と思ったら、それは高田先生の娘さんが運営しているダンス&ヨガスタジオ(?)とのことであった。一家でいくつもアトリエやスタジオをお持ちのようで、うらやましい。

その近隣にアトリエはあった。これもまた白い瀟洒な建物。1階はアパートで何部屋か貸しているとのこと。階段を上がって、ドアを開き、入らせていただく。

 

こんこん、ギー、っと 扉を開けると・・・

 

そのアトリエは、予想以上の広さ!

 

やはり白い色の家具が印象に残る。

画材や書類、トルソーやオブジェでいっぱいの広い部屋であった。カーテンの奥もちょっとした空間で、奥様も美術家で、生徒に教えたりすることもあるそうだ。とにかく、想像以上に広い。体育館のよう。

 

高田先生はパックのお茶を淹れてくれ、久しぶりに飲む緑茶がとても美味しかった。

それから時間が許す限り、いろいろな話をしてくれた。わたしは主に聞き役だったが、どのお話も自分の精神にすっとしみこむものであり、感銘を受けつつメモを取った。

 

そのお話のなかで、印象に残ったものをここに残す。

 

 

法隆寺の夢殿のスケッチを広げて見せて下さったこと。

実は、相続した串間の土地に、日出処の天子」に出てきた夢殿を立てたいなどと夢想したことがあった。

厩戸皇子が毛人を思って泣いていたあの小さな夢殿。

なんとなく、一人用の防音スタジオくらいかと思っていたが・・・高田先生の精緻なスケッチのおかげでそんなことはない意外に大きいとわかった。

 

その大きくて精密なスケッチは、絵画を仕上げるための下書きとのこと。

たくさんの下書き、資料、道具、そして手間。経験、知識、時間、時間。

 

・・・画家は一枚の絵を仕上げるのに、出向いてスケッチ、それを下書き、それをトレース、それから遠近が正しければいいというものでもないのでアレンジをして・・・などなど、実に手間をかけるのだとわかった。

 

・・・一枚の作品にとんでもない手間がかかっているのは、CDを製作する自分だって同じ。

自分も、焦らず丁寧に作品を作りこんでゆかねばいけないな・・・と改めて思わされた。

 

 

 

 

高田先生の墨絵の習作を見せて下さったときも同じようなことを感じた。

墨絵の線など、素人のわたしにはみんな同じ色にみえるが、先生によれば12種類の濃淡・色があるという。そして、いろいろな動物の毛で作られている筆たちも、どれを使うかによって、あるいは筆の使い方によって墨絵の線も変わるとのこと。描きたい要素に応じて使い分けるそうである。

プロならではの、技の使い分け。技術を身につけ、それを使い分けて描くということ。

描かれた習作のスズメや果物たちの、リアルな質感は、そんな技術に裏打ちされていたのだ。

 

完成品を作るには時間がかかっていいのだと、他人にその過程など見せなくてもいいのだと、励まされる思いがした。

 

 

お部屋にもちょこっとした美術家のアトリエらしさがふんだんにあった。

おっぱいのある、重たいトルソ。

ピエロみたいな、物悲しいドール。

金属のバケツをゴミ箱にしていたこと。

(それはいい、すばらしいアイデアだと思い、さっそく事務所で、実践・・・。)

 

それと、膠(にかわ)を見せて下さった。

茶色い液体!?何から出来ているのだっけ・・・説明もしてもらったけど・・・忘れてしまった・・・。絵の具を溶くのに使うのかな・・・。

この知識、講義で、神経膠細胞(グリア細胞)の説明をするのに役立ちそうである。

 

 

お手製の素晴らしいスピーカーで音楽を聞かせて下さったのは、とても感激だった。

ダイナミックスあたりに工夫のある、素晴らしいスピーカーで聴くクラシックオペラ「誰も寝てはならぬ」・・・わたしはやっぱり音が好き。

幸せな試聴の時間であった。

住宅地のなかなのに、結構大きな音で聴いていても文句が出ないのかなと、それも羨ましく思った。自分の事務所はさらなる密集住宅地なので、音に関しては逃げ腰であったが、自分が音楽をやる人間なのに音の設備投資をさほどしていなかったなと反省した。

 

自分の事務所に薄型スピーカーなどを壁に設置したいと夢想中である・・・・まだ実現してはいないが・・・

 

ともかく事務所の設備をケチってはいけないのだと学ばされた。

 

 

そうそう、照明も。

 

こういうの自分の事務所にも導入したいと、ずっと思っているのだが・・・がんばろう。

 

 

そして、クロコダイルのイベントのことについて、熱いトーク

 

こんなことを言われた。

 

「君のライブのやりかたを嫌っている人はいるよ、だけど、嫌われるってのは、それだけのことをしているからだ。何か表現したいものがあるのは伝わる」

 

褒めるつもりで言って下さったようだが・・・

わたしは

 

「えっ、あの素敵なイベント空間のなかに、わたしのライブが嫌いな人がいるのか(・_・)」

 

と、別方向に気になってしまった・・・しょんぼり。嫌いな方、すみません。

 

・・・嫌われているから、なんか、余計に、かばってくれているのかな・・・。

 

それと、あのイベントに関して、「君はもう中堅」と言われたことも、ずしっときた・・・

そうなのだ。もう5年くらい参加しているこの「ウクレレエイド」、イベントを開始された、亡くなられた浦上さんと、ギリギリ交流があるわたし・・・

浦上さんは本当に気さくでよいおじ様だった。海上自衛隊にいらしたというその背筋はぴんと伸びていた。

 

わたしは、「自分なんて楽器も出来ないし・・・」と深い人付き合いを避けてきたが、遠慮がちのようで、ただの臆病というか無責任だったのかもしれない。

自分の多忙もあり、毎回は参加できないものの、今となってはそのイベントに関して、他人のために盛り上げたり、イベントのためを思ったり、中堅ならば、そんなふうに尽くす気持ちも必要なのかもしれないな・・・と反省させられた。

 

高田先生が「君は吸収力が良い」とも褒めてくださった。

聞いてるふりをするのがうまいだけかもしれないが・・・長い間、表現や創作で生きている芸術家の方のお話はとても身にしみ入り、今日からまた自分を奮い立たせてくれる、そんなお話だった。

 

心理学の講義、講義、講義で、なかなか余裕のない日々であるが、学生さんたちと過ごす時間のなか、ふとした瞬間に表現者の自分が顔を出す・・・。

 

自分のなかにある、出てゆきたいものを、うまく出してゆきたいな・・・。

 

そんなことを思う、秋であった。

 

 

ギターも練習してます。

 

 

松岡宮からのお知らせです。

 

 

◆手作りフリマで唄作り

←雨っぽいナ・・・

 

2023年10月15日(日)

相模国分寺手づくりマーケット」@海老名 初参加。CD販売します。

またCD購入者にはその場で唄を作って差し上げます。

この回だけは、ビナウォークでなくJRの海老名駅の近くのららぽーと前で行うようです。厚木人だった自分にとっては故郷のような海老名。両親のお墓も近い・・・。

お近くの方はぜひ。

 

 

◆デザフェス@東京ビッグサイト

 

11月12日(日)17時から、屋内パフォーマンスステージで15分。

どうやらこの場所の最後の出演者のようです。

今日の記事に書いたように、わたしのライブはみんなに嫌われるライブなのかなぁ・・・と思ってしまいますが、やっぱりCDが売れるのもライブ会場なので、がんばります。

松岡に逢いたいという方は、ぜひライブにどうぞ・・・。

 

 

 

◆森社長とまたレコーディングするよ~

 

本文にも出てきた森社長とまたレコーディングします。

 

アルバム「~383」作るのに出会った頃はあんまり仲が良くなかったのに、今もこうして細く長く音楽制作で関わっているのがウソのよう。嬉しいです。

 

森社長も今日の記事の高田先生と同様、芸術表現のためにすんごい設備投資をして、本気でやっておられる方。

そんな方と一緒に仕事していただけるのは、うれしいですね。

 

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追記

 

ふと思ったのは、高田先生も、森社長も、芸術家であって、商業とは違うところを目指しているのだなということです。

世俗にまみれ強迫神経症なわたしはCDが売れないことを悲しくすまなく思っていますが(強迫症状)、森社長は、作ったらそれでいいんだよ~という感じで、ゴッホも生前売れなかったという話をしてくれたりしたな・・・。

そんな方々と交流できると、表現活動の本質を教えてもらっているようで、ほんとうに感謝です。

 

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さらなる追記

 

●サブスクで新曲「その嘘を信じることができたなら」リリースしました。

 

脳性麻痺の宮城永久子さんが書かれた、とても率直な詩に、わたしが音楽をつけました。

 

 

big-up.style

 

見た目にわかる重い障害がある方の言葉は重いですが・・・・なにか、伝わればいいなと思います。

障害があろうとなかろうと、仲間になれば、仲間なんだという気持ちです。

 

新作「脳に障害をおった私から大切なあなたへの7つのお願い」

 

Seven Wishes from a Person with Brain Injury(脳に障害をおった私から大切なあなたへの7つのお願い) - YouTube

 

こちらも障がい関連のポエムです。昔つくったもので、講演会で朗読すると、とても好評でした。

この世界が、脳が傷ついた方々にも、優しい世界でありますように・・・。

 

 

日本評論社「まちにとけこむ公認心理師」第7章執筆

 

10月末に出る以下の本の第7章を、仕事の名前にて執筆しました。

 

 

またそれについては詳しく書かせていただきますが、もとより資格を前提としていない自分の活動の愚かさゆえ、いろいろ苦しい執筆でした・・・

 

公認心理師」と「松岡宮」は両立してはいけないのか・・・とも思い、

松岡宮を葬り去るべきなのかと悩んでしまいました。

 

地域ってつらいのよ・・・なんてことも書いたりして。

とても個性のある本になっていると思います。

 

 

祝祭のシュクメルリ、その代償

これは、プリン。1個のプリン。

これは・・・2個の・・・プリンス?

 

・・・ごめん、わたしには無理だった。

 

(いつもそんなふうに謝っている気がする。)

友人との楽しい会食

素敵なお店の美味しいディナー、贅沢な一夜 

小さなボートにプリンの黄金を詰めて漕ぎ出した・・・が・・・無理だった。

 

「小食ぶる」という言葉を知った、わたしはそれなの?

確かにダイエットを気にしてあまり糖質を摂らないこの10年

そうそう、糖質制限では肉が神聖視される、だからわたしは肉が好き、モツが好き。お刺身も好き。

好き嫌いはない、モツとか スパイシーな食べ物とか好き。

 

・・・だけど今週の2度の会食でわたしはそれほど食べなかったと思うし

それでもわたしには無理だったのか(結論はわからない)

わたしはとても楽しかったし、お金を使うというのはとてもいいことだと分かった

そうなのだ、今まで自分がセーブしていたことを、 少し「ゆるし」てみたら

それはとても楽しいことだったし

飲み食いすれば 人格は丸くなった

パアパア プリン プリン プリン

「飲んでればいい人 ずっと酒を飲んでいればいいのに」と言われる

お金って不思議 たくさん使うと明るくなる

お金って不思議 食べ物が美味しくなる魔法

・・・しけたことをいうなよ。

・・・そう、ここは、日本一の歓楽街、歌舞伎町だから。

身が壊れるのはどんな音

ひとの不幸をスパイスに今日も肉食で痩せましょう!

 

 

バーニラ バーニラ 

新宿という場所が背中を押した

冷蔵庫のなかで古くなったバニラエッセンスがすべてを染め上げ

どうしたの先生たち、職員室はバニラの香り

そんなふうに瓶のなかの欲望がふと零されてなんともいえない腐臭を放つ

 

 

「ひとは生まれながらにみな平等な権利を持っているんだよ」

 

 

(ひとのことなど思いやっていたら身動きがとれないよ)

優しいひとがまたひとり消えた

 

・・・もうさ、歌舞伎町って場所はわけがわからないよ、奥さま、億さま、ごちゃまぜのようでそこには決まりがある、わたしには見えない決まりがある、同じものを、みていても、ある線引きがあって、あなたはそこから進んではいけない、あなたはとどまっていなければならない、できることなら空中浮遊、負けるくらいならはやく病気になりたかったんです、嘘、なんでもありません、ああ、体は重くてたまらないし、骨って、邪魔だな・・・。

 

鉄骨をくみ上げ工事中だった場所に新たなビルがそびえたつ

「美しい時代へ。」

それは、東急の歌舞伎町タワーだった。

 

 

・・・タワぁぁぁ、神さまぁぁぁ、もう、わけがわかりません、また、また、大きなスタチュー立ち並び、空を飛べよと背中押す、東急、東急は責任をとってはくれまいか?このカオスの、この、同じ身体のなかを貫く、矛盾したタテとホコのことを、欲望が生まれちゃう組織の起始部のことを・・・・地面を歩くのは体が重すぎて大変だし、星は見えてもニセモノだし、少し空が飛べるといいのになぁ、神さまぁぁぁ、咳が出なくても咳止め飲んでいいの?浮ついた環境で身を守るのは意外に大変なのです、創作やるひと、表現するひとならば、なおのこと、表現するたび身は削られ、芸術療法が無に帰すSNS、わたしには無理だった。漕ぎ出した舟は泥で、プリンを頬張りながら、沈んでいった・・・

 

お店、あった、ズラストブイチェ!

 

その日わたしが居たのは、ロシア・ウクライナジョージアグルジア)料理的だった。螺旋階段を下りれば別世界。いかにも高給そうなエレガントなお店で、乏しい財布が心配になったが、懐かしい雰囲気、自分が知っている日本という感じで、安心する。

 

(そういえばわたしは第2外国語がロシア語だった。駒場祭で「ミール」という名のお店を出した。)

 

 

ロシア・ウクライナジョージアグルジア)のお料理はそれぞれに混ざり合いこの新宿でひとつのお店を形成していた。大陸のお料理同士は喧嘩せずにうまいダシをもたらし、どこか酸味があって、しかも、馬のお肉に、イノシシのお肉。よだれが出ちゃう、今夜はごちそうだ。

 

いただいたお料理で印象に残ったのは「シュクメルリ」。

ジョージア料理だそうだ。

 

あたかも祝祭のような名前で、予備知識もなくテーブルに置かれたその料理の中には、鳥の足が「ボンっ」と入っていた。

 

ボンっ。

 

・・・なに、この、めでたそうな、姿・・・。

 

鳥の足(だけ)がミルキーな温泉に浸かり、食べられるのを待っている。

 

・・・美味しそうだな・・・と思う自分は、捕食者(プレデター)なのか、それともこの温泉のなかの骨なのか。食物連鎖のどのあたりにいるのか、肉食な自分はたぶん大きな罪を背負う。

 肉を食えば報いが来ること、この時は知らなかった。

 

シュクメルリの鳥の脚を2つに切ったら、すっと切れて驚いた。骨のないポイントがあったのだ。

 

 

骨を分解できる秘密。女性ホルモン。人間関係や社会生活をうまく営める人には秘密の技術があるのだろう。その時突然思い出した、自己破産をした親戚のこと。けっして不真面目な人ではなく商売を頑張っていたけれどうまくいかなかったそうだ。破産する人には真面目な人も多いのだ。

失敗しない人などいない。

弱みのない人もいない。

この年になって、思った以上に「できない」人が多いということも知った。

でも「できない」ことは許されないから、外見だけでもできるような形をしているだけで、中はとろとろ、骨は溶け、いたいけな身体はしゃぶりつくされる、大陸の豊かな味わいとともに、美味しいね、ごめんね、食べてしまって、鳥さんも、せっかく生まれてきたのにね、ダスビダーニャ。

 

 

なんて大きな一億の文字。右下の一期よりも一億のほうが伝えたいことなのだ・・・すぐに、すぐに、消えてしまうよ・・・ただの文字なのに、明朝体はときに精神に刻印を押す、1億の、お金の、「すごい!」、評価の言葉のスパイスかけられて、わたしもお鍋のなかにいるのだった、そう、もう、この骨は昭和の小さな建物、柔らかに錆びて、女性ホルモンも無いし、ぐにゃっと痛んでダメになってしまいそう・・・

 

会計を済ませて外に出れば空にそびえる東急歌舞伎町タワー!

 

 

地面に目をやれば、トー横広場。シートを敷いて酒盛りする若者のことをもう楽しい目で見られない。無私の優しさみたいなもの、思いやりが、この街のどこかに落ちてますように。

ごみと若者と観光客のあいだ、兵隊のように客引きのボードを持った容姿端麗が立ち並ぶ。

 

 

東京ではこんな星座を楽しめます、LEDの星がまたたく新宿歌舞伎町。

似てればいいでしょう?もっと輝かせることできるし。やっぱり美人は得をする、顔だけでいいから偽ろう、年収だって偽ろう、1億と10億はもう同じ数だから・・・東京の街はいつもそんなことを言っていたっけ、大事なのは大きいことではない、大きく見えることだと。

 

(掃除をする人こそ高給取りであるべきなのだ)

 

街を歩けば浮遊感。この風景のどこかに鎖を放つ鍵がある、幼稚園でなく保育園、福祉マターのピンクの温泉、開放感のただなかで、骨格とろけた自分は加齢臭など放ち、結果的にはダメだった。危なっかしいぞともう一人の自分が警告をするので財布とスマホをカバンの深いところに入れてにらみをきかせる。

 

歌舞伎町。今はこんなに賑やかだけど、そのうち人が消えてゆく、そんな予感がする。

 

壊れたままの蛍光灯を直さないままの隅っこのビルの脇をすり抜け、帰宅。

シュクメルリのかけらが靴に残っている。

まだ足は痛んでいない。

 

 

すぐに次の物語の幕はあがる。

友人に誘われ、行ったのは新国立美術館の「テート美術館展」。

これもまたギンギンギラギラの欲望の街、六本木の近くに新国立美術館はあった。ここ数年で東京メトロの制服が微妙に変化したことに気づいたが駅員の骨格はたくましいままだ。

 

(駅員はしっかりしていて、いいですね)

 

 

印象に残った絵。

英国の画家ダービーが描いた、ポンペイのヴェスヴィオ火山。

煙がボウボウと上がり、避難する人の姿もみえる。

 

 

わたしもポンペイに行ったことがある。

数年前のイタリア旅行、ナポリ経由でポンペイ遺跡に行ったとき、あまりの広さに感銘を受けた。噴火がなんとすさまじかったことかと、歴史的想像力を新たにしたのだが、この画家もそうであったらしい。いや、この画家のこだわりはものすごい。画家のなかで火山はいつも噴火している。

 

先生の火山は、ある日突然噴火する。

 

「このコーナーでは撮影は禁止となっております・・・禁止となっております・・・禁止となっております・・・」

 

こだまのように響く禁止の声の主は四面四角のスーツの女性

学芸員を「禁止器」にするのが国立のアート、ルールを拡声する「禁止器」というアートが飾られている新国立美術館・・・

 

(いや、ルールは大事です)

 

(そういえば警備員も骨組みのしっかりしたアートであった)

 

また、バチェラーの「ブリック・レーンのスペクトル2」も印象に残った。

さまざまなレクタングルのなかに色とりどりの蛍光灯が収められている。

長方形は健康的で、骨格が崩れかけているわたしには、とてもうらやましい。

 

 

・・・人間がこのようであったなら、世界は平和で争いもなく 人間と人間がうまく積み上げられ 互いに役立ち リスペクトしあえたであろう

だけどわたしは長方形ではなかった

人付き合いのマナーをしばしば破った液体であり、きれいごとの世界で生き抜けなかった気体だった

 

この展覧会で、光のまわりは影があることにあらためて気づいた

わたしの母校は桐蔭学園

桐のかげと書く桐蔭学園

 

誘ってくれた高校時代の友人と ツーショット・・・。

 

それからわたしは、踵の高い靴で友人の背中を追いかけながら、夜の宴会の場所へと向かった。

六本木は意外に人が少なく、人間の姿より光のほうが多いくらいだった。

影の地平からヒルズを見上げていると、ときおり車がクラクションを鳴らした

秋風が心地よい。

 

西麻布までかなり歩き、もう2人の友人と合流し、祝祭のシュクメルリ・・・

 

ああ、なんて楽しい夜!

 

 

そう、またシュクメルリをいただいたのだ。

 

 

中年女性が4名で骨のないシュクメルリをいただく。お肉はプリンと柔らかく崩れて、噛み切る必要もなかった。熱いのでフーフーと息を吹きかけながら、もちもちと、ちびちびと、いただいた。

わたしは付き合いだからと少しだけ飲んだ梅酒でさっそく酔ってしまい、すっかり大人しくなってしまった。骨がない、もうダメだ、沈没だ、骨がない。でもみんなの話を聞いているだけでとても楽しかった。

わたしの作品をすごく聴いてくれている友人がいて(ありがとう!)、サービスで「それはどこまでも深い大江戸線」お箸をドラムスティックにして披露した。その様子を友人がスマホで撮っていた。

 

高校時代、わたしが数学教師Sに気に入られ、わたしもSを気に入っていたという話題が出た。

「まっちゃんに、S先生のどこが好きか聴いたら、”おしりがプリンとしているところ”って言ったよ」

・・・そんなことを言った覚えはないが、わたしなら言いそうだ・・・。

別の友人が、S先生はスラックスのポケットに指を入れ、やたらとヒップを強調する姿勢を取っていたと大笑いした。また別の友人は女子部の卒業アルバムを全てデータ化してスマホに入れており、それを見せてもらったら意外に若いS先生の姿があった・・・

S先生、あの頃30代前半とかだったのですよね。女子高校生にとっては、おじさんだったけれど・・・。

 

数学の能力はあると褒めてくれて、ありがとう、S先生。

 

プリンは欲望のシンボル。

 

西麻布は人が少なかったが、近隣に住んでいる雰囲気のオシャレな常連さんたちで小さなお店はにぎわっていた。我々中年女性がS先生の思い出話など不毛なネタで騒いでしまったのではないかと反省するが、お店の方は感じがよく、また来てくださいと言ってくれた。

 

友達はいいものだと思い、もうなんだかそれ以上のものって無いかもしれないという気がした。ほとんど終電で帰ったわたしは、友人たちの次の約束を苦笑しながら眺めた・・・。

 

みんな、元気で、うれしいよ。

 

 

その2日後くらい、左足が腫れて痛むことに気づいた。外傷はない。

 

その痛みは少しずつ大きくなっていった。

 

 

けっこう歩いたせいかな、靴が合わないのか、外反母趾か・・・などと思いつつ、ネットで症状を調べたところ、ある病名に行き当たった。

 

 

それは意外な病名だったが、「・・・間違いない・・・」

と思った。

 

プリン、プリン、プリン。

 

そう、痛風

 

女性ホルモンの作用により、女性には起こりにくいと言われているが、女性ホルモンが少ないと、女性でも痛風になるらしい。わたしは閉経が早かった。もう女性ホルモンなど枯渇しているであろう・・・。

 

左足の親指あたりが痛み、お気に入りの踵の高い靴が履けないので、しばらく自宅生活を余儀なくされつつ、ヒョコヒョコと近所の内科に行ってみた。

医師も「痛風っぽいね」と言ったが、検査をしたところ、尿酸値についてはそれほど高くなかった。

 

結局、「症状としてはどうみても痛風だが、痛風とは確定できない」という結論になった。

痛み止めで痛みは軽減し、現在はほとんど痛みはない。

 

しかし・・・痛風疑い、か・・・。

その可能性はわたしをガッカリさせた。

 

(・・・病気になりたかったんじゃないの?)それは、若い頃の話ね・・・。

 

ひどいときは階段を下りるのも苦労した左足の痛みの中、自分の食生活、ことにこの「週に2回のシュクメルリ」を反省することとなった・・・(食べ過ぎやん・・・)。

 

・・・なんか別世界のように楽しい週だったね・・・

背後で花火が立ち上がり、火山の炎が空を染め上げる

祝祭のシュクメルリ!

君の欲望、解放しチャイナ・・・

はい!

もりもり食べて、欲望のまま、遊んで豪遊して眠れと誰かが言うので わたしは頑張ってお金をつかい、人と会い、弱いお酒を飲み、東京に住む楽しさをかみしめ、がんばって欲望のままに生きてみたのに・・・・

 

残ったものは「風が吹いても痛い足」だけだなんて・・・。

 

どんだけ貧乏性な器なのだ、わたしの肉体は。

 

女性ホルモン不足したわたしの身体は泥の船、骨組みは腐って溶けかけて、少しの荷物で沈んでゆく泥の船、豪華なディナーなど、もとよりわたしには無理だったのだ。

 

・・・・そう思いながらも、尿酸が高くなかったので、痛風ではない可能性もあるぞ。

 

そこで、以下のようなことを考えた。

 

・・・また、プリン体を含む食べ物をいっぱい食べて、足が痛むかどうか、実験してみようじゃないか!?

 

お肉にモツ、おさしみ、お酒!欲望の街・東京で 背中を押されて舞い上がり 楽しことに万札崩す、食欲の秋は、プリン、プリン。

 

祝祭のピストルが鳴り響き、紙テープのように咲くシュクメルリ

 

死に近い秋は、まだ、始まったばかり・・・。

 

これは・・・3プリン。

これは・・・よんプリン。

 

小さなボートにプリンの黄金を詰めて漕ぎ出して・・・次は大丈夫!

 

じぶんの不幸をスパイスに今日も肉食で痩せましょう!

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

記事はこれで終わりです・・・・

しかし、年を取ると病気がちになりますね・・・。

 

松岡宮からのお知らせです。

 

💛

 

欲望といえばメロンブックスさんで松岡宮のCDをお取り扱いしてくださっております。「他の人はこんな商品もチェックしています」が祝祭にあふれ面白いので、ぜひ見てやってください。

 

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1859970

 

 

💛

 

 

また、BandCampでも松岡の楽曲をほぼすべて試聴できます・・・

というかまさかの「スズメバチの敗北」リリースしました・・・。

 

miyamatsuoka.bandcamp.com

 

わたしの作品は面白いので、良かったら作品を聴いてみてください★

その人が作品を作っていることを知ることと、実際の作品を知るのはぜんぜん違うことで・・・前者と後者は違うことだというのを知ってもらえたらうれしいな。

 

色々な方が近寄ってくるのに、どうしてこんなにCDが売れないんだろう・・・って、いつも悲しくなります。

だけどいつだって創作意欲盛んなわたし。

PCで作品を作って、声を入れて、配信して、それがお仕事になったらいいなと思っておりました。

 

・・・それで、いろいろあって、この秋は複数の教育機関におけるオンライン講義・オンデマンド講義に追われています・・・

・・・YouTubeライブ配信して、チャットに返事して、動画作って、配信して、それでお金貰って・・・・

 

・・・ん、なんか、夢、叶ってる!?

 

あ、次回ライブはデザフェス11月12日(日)17時ごろです💛


三度目の串間の旅のこと(体調不良というギフト)

この記事は、以下の記事の続きである。

 

ekiin.hatenablog.com

 

三度目の串間の旅が、これまでと違うのは、わたしが単独の相続人になったということであった。

 

末っ子、次女、背は低い・・・

 

おまけにどっかの家へと嫁に出た・・・。

 

こんなわたしが松岡家の当主である!

 

よって、かかる金銭は自分ひとりでなんとかしなくてはならない。そのぶん、自分で土地や家のことを決められる気楽さはあった。

 

最初の仕事は、母屋の撤去である。

相続した敷地には、「崩壊寸前の”母屋”」と「そこまで壊れそうではないが、中はゴミだらけの”離れ”」の2棟ある。

撤去もしくはリフォームの相談を業者にしてみたら、さっそく見学に行ってくれ、状態が悪い母屋のほうは「台風が来る前に早急に撤去しなくては危ない」と忠告された。

 

宮崎は「台風銀座」であり、秋ではなく7月~8月にも台風のリスクがあるという・・・「台風銀座」・・・それは想像を超えた言葉であり、わたしの知っている銀座ではなかった。

 

東京とは違う世界、南九州の気候があるのだと気づいた。

 

そして業者から届いた撤去工事の見積額は、思った通りの高額であった。

 

いまの時代、何かを手に入れるということは、そこに「さいごまでめんどうをみてください」という責任の札が紐づいているということである。

だからみんな、手を引いてゆく。

何かを得ることは費用負担のほうが大きいのだ。

「これは父の故郷への寄付なんだ」と思って自分を納得させ、「了解しました。工事を進めてください」とお伝えした。

 

実際の工事の前に、業者さんといちど顔を合わせて話し合おうということになり、6月末に行くことにしたのが、この「3度目の串間への旅」である。

 

 

2023年6月末、3度目の串間の旅。
以下の便をネットで安く取った。
1万円未満。
鹿児島行きは安くてよい。
 
便  名:SKY301
発着空港:東京/羽田 - 鹿児島
発着時間:06:35 - 08:25
 
今回が今までの2度の旅と違うのは「夏である」という点だ。
 
庭はおそらく草ぼうぼう、虫対策が必要だな・・・ということで、もっともハードなブーツを履いてゆくことにした。服装も、長袖、長ズボン。自分は暑さに強い体質なので、厚着してゆこうと決めたのだ。ただ着替えを持って行かなかったのは失敗で、現地でシャツを購入することになった。
 
旅行前日の夜中0時から英会話だったが、眠さでうまく答えられなかった。今思えばそんな時刻に英会話を入れなくてもよかった。
 
就寝してすぐに起床時刻の4時半が来た。外は明るい。
これまでの冬の旅とは違うな、夏なのだなと思う。
 
わたしはケチなのでいつも弁当を持ってゆく。
この時は、歴史に残る、ひどい「しりある弁当」だった。
 


この頃、美容と健康に良いのかと思って低糖質シリアルを買ってみたのであるが・・・鳥の餌のようで、あまり好みではなかった。
余っていたので持って行けばいつか食べるだろう・・・と弁当箱に突っ込んだが、その予想は外れ、結果的にこのシリアルは食べきれず、捨てるわけにもいかず持て余した。
自分はこういうシリアルが好きではないのだなと実感した。そういえば実はあまり牛乳も好きではなかった。
 
串間への旅を思うとき、トイレの近い自分は空腹の恐怖よりトイレが無い恐怖のほうが大きい。そのため、朝のコーヒーも控えめに、買ったばかりの黒いトランクを引きずり、出発した。
 
矢口渡から蒲田へ向かう始発列車は5時11分、それなりに乗客がいた。黒いスパッツの同世代の女性がみえたが、仕事に行くのだろうか?朝が弱い自分の知らない世界があるようだ。
 
JR蒲田駅東口ロータリーには空港行きリムジンバスのバス停があり、すでに行列が出来ていたが、わたしはケチなので徒歩で京急まで向かう。
いちばん近道はいちばん色っぽい通りで、結婚恋愛相談所の看板が目立っていた。
 
 
早朝であるので呼び込みもなく、鳩がエサを探して群れだっていた。
 
徒歩10分ほどで京急蒲田に到着した。朝の5時半ごろであったが、もう暑いくらいの気温であり、汗ばんできた。
京急ホームの3階まで直通する長いエスカレーターに乗り、要塞のように巨大なホームから乗り込んだ空港線優等列車。高架線の蒲田を出てゆるやかにカーブする風景の左手に、お世話になった精神科病院の南晴病院のさびた鉄枠が見えた。
周囲から浮いて黒ずんだその病院の姿は、自分が地上から見ているときよりも古びて見えた。
 
第1ターミナル、北ウイングからスカイマークへ搭乗する。
3度目ともなれば慣れてきて、ハサミを手荷物から除き、逆に一つだけ持ってきたモバイルバッテリーは手荷物に入れる。ブーツは脱げと言われることを予想し、脱ぐ準備をする。
ずいぶん空港慣れした自分に気づく。

 

 

空港に「ラウンジ」という空間があるらしく、自分には縁のない空間だとは思うし、それに入り込んだわけでもないのだが、どんなところなのか、気になった。

 

えらばれしひとが入れるのか・・・?

わくわく・・・。

 

「ラウンジ」について考えることが、この旅の宿題となった。

 

 

飛行機は3人掛けの窓際の席、しかも隣は空席となっており、快適に過ごすことができた・・・と言いたいところだが、朝はやっぱり体調が悪い。早起きは心身に悪影響を与え、いつものパニック発作がひたひたとこちらに来そうである。頓服も持ち歩いているがそれは最後の手段とし、あわててグランビートでジャズを聴いて心を落ち着かせた。

 
そう、この頃は友人の影響でよくジャズを聴いていた。
 
「第3の男」、「スターダスト」、「サマータイム」・・・英語を聞き取ろうとがんばる。
 
パニック対策は作業を拮抗させることなのだ。
飛行機は本当にパニックとの戦いなのだ。
 
個人差はあろうが自分は離陸までがもっとも緊張感が高まる時間であり、自分の精神が膨張するのをなんとか収めるために、ジャズを聴く、英語を聴く、英語を思う、学びまくる。閉ざされた飛行機はゆっくり進み、やがてカーブしながら滑走路に位置する。あっ、いまから離陸するとわかる。皮膚全体から周囲の様子を推し量るのは警戒心の強い人間の癖だ。そしてわたしを乗せたスカイマークは轟音をたてて離陸する、その瞬間、角度が変化し、体が斜めになる、その無力。この世界にGがあることを感じる。Gはゴキブリではない。Gのコードは何だっけ。ジャズは相変わらず流れている。パニックはわたしの神経に来てはいないが油断をすると来てしまいそうで、第3の男、スターダスト、サマータイム、子音の聞き取りに集中する。そして、パニック除けには演技が大事だ、わたしね、これからニューヨークにジャズ留学なんだ・・・HAHAHA、それなんて大江千里
 
 
今回も機内でキットカットとインスタントコーヒーをサービスしてくれたが、長時間トイレのないバスに乗るのでコーヒーは喉を湿らせる程度にした。
トイレの近い人間は、つまりキャパの小さい人間は、のちの廃棄のことばかり考えてしまう。
 
また、機内でNHK放送大学認知神経科学」PDFを読んでいた形跡があった、が、なぜかあまり覚えていない。不眠に悩む夜は、実は寝ているのだといわれるが、飛行機に乗っているときはやたらと研ぎ澄まされて「眠れそうで眠れない」と思っていても、あとから考えると半分寝ている。薬は飲んでいないが、記憶に薄い霧がかかっている。
 
飛行機は早い。思いのほかすぐに着陸態勢に入る。窓の外、雲間から緑の田園がギラリと光り輝いてみえる。もう九州上空なのかと思う間もなく飛行機は高度を下げ、轟音をたてて鹿児島空港に滑り込む。時は8時25分。
 
手荷物を受け取って外をみたらスコールのような雨が降っている。大粒の雨音が響く。鹿児島の天気は変わりやすいのか。
 
志布志行きのバスは9時40分発なので、鹿児島空港で1時間ちょっと待つ。飲み物は控えるが、食べ物は補給しようと思い、鹿児島空港のベンチでおやつを食べる。
 
 
 
そして9時40分、定刻で出発したバスには10人ほど乗り込んだ。わたしは最前列の座席の足元にトランクを詰め込み、ぎゅうっと身を細めて乗り込んだ。固定されているような狭さが心地よかった。

 

さあ、いざ、志布志まで。

 

 

真夏のような太陽の下、あちらこちらで咲く花を見る。

 

志布志までの1時間50分をどのように過ごしたのかは記憶にないが・・・おそらくGRANBEATでジャズを聴きながら、睡眠を取っていたのだろうと思う。

 

志布志に到着する予兆は風景でわかる。山がちの、緑に覆われた風景から、少し住宅が現れはじめる。最後に商業地が現れる。

 

坂を下って右に曲がり、見慣れた市役所のある通りが現れると、志布志駅に到着。

 
空は快晴。
夏の志布志は一段と空が青い。
 

 
日傘を持ってきていなかったので港に行くことはあきらめ、駅から徒歩5分ほどの「オリーブ ド ラブ」というお店で昼食をとることにした。
 
 
 
このお店は、外からは想像もできないほど広々しており、綺麗でセンスの良いお店だった。
お客さんもそれなりに居たが、一人客のわたしも4人掛けくらいの広い席に案内してくれた。広々としたテーブルがうれしい。
 
 
ガーリックトースト、サラダ、アイスコーヒーを、「南日本新聞」を読みながらいただく。
イタリアの高級パスタを使っているようでとてもおいしかった。また、ガーリックトーストもフレイバーが強く、とても美味しかった。(←語彙がない)
 
志布志まで来るとなんだか安心する。
これから行く串間は宮崎県、志布志は鹿児島県、別の県なのに、同じ地域だなという感じがする。
 
志布志から業者さんに連絡をし、15時に現地集合の予定を確認した。
そして、そういえば志布志駅は始発駅なのだから早く行ってもいいかもと思い、ふたたび志布志駅まで向かった。

 

「ぼくはすっかりげんきになりました!」

 

やっと全線復旧した日南線が出迎えてくれた。

 

 

3度目にして、やっと志布志駅から串間駅まですべて日南線の鉄道で行くことができる。「日南線で串間まで日南線で行く」ことは、当たり前ではないのだ。奇跡のトランスポートを引っ張る運転士のたくましい肩に夏の日差しが差す。
 
白い車体は、数人の客を乗せて出発する。
 
ガタンガタン・・・伸び盛りの木々の合間から見えるエメラルドの海。鬱蒼とした森の生命力は嘔吐となり広い海へと収斂される。海側の切り立った崖の風景が言葉に尽くせぬ迫力で、海に対する地上は小さいものであり、人間などはさらに小さいものだと実感する。

無力で小さな自分が、ガタンガタンと身も心も揺らされて、なぜかテンションが上がる。
 
無力は力なのだ。
 
  
 
そう、無力は力なのだ。
 
東京に居ては尊大になる自分が、ここでは無力であることを学ぶことは、先祖からのギフトなのだ。わが精神が新緑に染まる。ああ宮崎に住みたい。
 
思えば、この時は元気だった。
 

そして志布志から20分弱で到着した串間駅は・・・あれ、前回と何かが違う・・・

そうだ、工事が終わったのだ。

 

・・・なんと、駅舎が綺麗にリニューアルされていた!

 

 
駅舎や周辺がとても綺麗になっている。こじんまりとした駅舎は、まるで鉄道模型に出てくる駅のようにピカピカ、新しく夢のある空間に自分が身を置いているようだ。
これは、鉄道の駅が市によって大事に思われている証ではないだろうか。
 
駅の小さな待合室には、昭和天皇が来た時の写真が飾ってあった。SLの写真も飾られ、地元の手作り品も販売されていた。
 
記念に買えばよかったな・・・。
 
そう、この時は元気だったが・・・いま思えば、なんか、気負いすぎていたと思う。
「そこでちゃんと休め自分」ってあのときの自分に言ってあげたい・・・。

 
日差しは厳しく、かなり暑い日。駅から家までは徒歩10分程度。炎天下、カートを引いて、ごろごろと向かい、最後は坂を上ってたどり着く「我が家」
 
汗を流しながらたどり着いた「我が家」の庭は、予想通り、背丈をはるかに超える草に埋もれ、草原というよりは森林のようになっていた。
 
 
この写真右手の「離れ」にたどり着くためには、まず、木を切らないといけない。
 
軍手をはめ、飛行機で没収されずに済んだ「はさみ」で草を切りながら、「離れ」までの通り道を作った。そして、足元にマムシやムカデがいるのではないかと警戒しながら、縁側に向かった。
 
よいしょと縁側に上り、常に開いている離れのガラス戸を横に引いた。
 
前回、片づけに来た時と変わらない風景がそこにある・・・はずなのだが、なぜか蔓草が室内の戸棚へと延び、つるを巻いてぐんぐん育っているのが見えた。
 
どこから入ってきたのかわからない。生命力はおそろしいものだ。
 
縁側は少し高さがある。室内にある「卓袱台」などを庭に出して、台にしようとした。
 
 
その作業の途中、縁側から不用意に降りたとき、不安定な石の上に右足をついてしまい、転倒してしまった。
 
草むらにしりもちをつき、右足首をひねった。
 
足をひねったことよりも草むらに投げ出された髪や衣類に虫がひっついていないかと、そんなことが気になり、パンパンと草をはらう。実際、このときは足は痛くなかったのだ。
 
暑い中、最後の片づけを行っているうち15時になり、業者さんが家の前まで車で来てくれた。能力の高そうな若い方で、会話が弾む。「台風が来る前にやりましょう。もう、急ぎで。」とせかされる。
 
見積もりでは母屋の撤去だけをお願いしたが、それにプラスして、離れの建物の中身をすべて廃棄し、庭も綺麗にしていただきたいとお願いをする。また、入り口付近の枯れ井戸は撤去することにした。そのぶん間口が広まり、重機が入りやすくなると言われたからである。当然ながら見積もりが増えるが、それも行ってくれることになった。
 
いよいよ、撤去への道が始まる。
 
わたしの一存で、歴史あるものたちがどんどん撤去されてゆく。
 
じくじくと刺すような日差しのもとで、立ち話をしたあと、業者さんが「ホテルまでお送りしましょうか?」と言ってくれたのだが、「いや、もう少し片付けがあるので・・・」と断ってしまった。

これは良くない選択だった。
休むことも、大事な仕事なのだ。
 
この時、ちゃんとホテルに行って休んでいれば、その後苦労しないで済んだだろう。
 

 
さあ、片づけだ。
 
トイレも使えない猛暑の家のなか、ドリンクも飲まずに最後の片づけを行う。3度目の、そして最後の片づけで、唯一にして最大の気になる荷物があった・・・

 

それは「パソコン(3台)」。

 

これはやはり東京に送るべきだろうなと思い、まとめてファミリーマートで送った。送料は1950円であった。

 

 

 

宅急便のなかに一緒に突っ込んだ懐中電灯がふと灯りを放った。




 
 
崩壊寸前の母屋にはもう立ち入らない。
壊れそうな玄関には黒い大きな虫がおり、ぶんぶん飛びまわる羽音が聞こえてきた。
撤去工事が決まった母屋を最後まで守るかのようだった。
 
 
「離れ」も、中はゴミだらけで、物静かな昆虫が息をひそめ、つる草だけが繁殖するような、あまりに不健康な空間であった。
 
ここにずっと居ると病む。そう思った。
 
ぷーんと耳元でうなる虫たちに悩まされたが、虫よけパウダーが役立った。
近づく虫。
はねつける自分。
虫よけパウダーをシューっと出しすぎて、むせかえる自分。
そのたびに具合が悪くなる。
汗がどんどん出ているのに、この家のトイレは使えないからと、飲み物を飲んでない。それが体に良くないことは理解していたが、ひとまず、家の片づけをしなくては・・・と、そればかり考えていた・・・
 
がんばれ。
 
がんばれ。
 
・・・いや、誰もがんばることなど要求していなかったのに、勝手に頑張って、消耗して、この相続には何か意味があるのだろうか・・・
 
いや、さっきの業者さんとの話では、駐車場ができるって!?車が停まれるってさ!・・・
 
それが何だというのだ・・・
 
もう休みたい、もうこの事業の全てを捨ててしまいたいよ、さっき転倒したときに袖口についた草たちは、まるで貧乏くじ。おじいちゃん、もう全て捨ててしまいたいよ・・・わたしの乏しい老後資金を痩せ細らせるこの事業から・・・
 
 
もとより逃避だった、串間の相続。
1回目に来たときは初冬の街、広々とした風景が新鮮だった・・・。
だけど3度目は夏の街、猛暑に心身を搾り取られ、「田舎ゆえの新鮮さ」などを感じる余裕が失われた自分がいる。
 
おろかだ。自分の覚悟はその程度だったのか・・・
 
「いよっ、相続人!」
 
甘いマスクのおじいちゃんが笑顔で背中をたたく。
 
そうだ、覚悟はなくても責任はある。がんばれ自分。
 
(・・・わたし50代なんだけど、地域の福祉の輪のなかではなぜか若者扱いなのよ・・・)
 
愚痴ともつかぬ独り言を放ちながら、最後の片づけを終わらせる。
 

 
6月の九州の18時は、まだまだ昼間のような明るさである。日焼けを気にしながらホテルへと向かったが、そのとき右足が痛むことに気づいた。体調も悪い。
 
まずいな・・・。
 
夕食の買い出しの前に、少し横になる。
 
 
少し休んだあと、ニシムタに買い物にゆく。痛む足にブーツはきついので、ニシムタで運動靴を買った。
 
 
また、シャツの替えもなかったのでシャツを買った。夕食用に、刺身、トマト、ドレッシングも買った。
 
ニシムタは大きなお店で、要するになんでも売っているのだ。
 
 
夜の8時になっても九州の夏はまだどこかに昼の名残りが残っていたが、さすがに涼しくなってきた。
 
買い出しの帰り、夜の道を歩く高齢の女性がいた。小さな灯りを握り、すたすた歩いている。都内では灯りを持って歩くのは多摩川サイクリングロードくらいであるので、興味深く思ったが、そういえばこの街の歩道は暗い。
 
ずいぶん遠くに来てしまった。ここを故郷に出来るのだろうか?
 
痛む足、頭痛、この体調不良・・・
 
先祖一同に「わかったからもう休め」と言われているようだ。
 
明日は温泉に行ってのんびりしようと考え、早めに就寝した。

 

 
翌朝目覚めると、ひねった右足の痛みは薄らいでいたが、頭痛と吐き気はひどくなっていた。
いつものあれだ。40代になってから、吐き気・げっぷを伴う片頭痛は持病となっていた。

バファリンを飲み、あまり効果がみられないので、胃腸薬も飲んだ。
 

 
3度目の串間の2日目の予定は、以下のようである。
8時33分 「よかバス」で串間駅から串間温泉へ 
11時26分「よかバス」で串間温泉から串間駅に戻る
11時55分 日南線志布志駅 
13時59分 バスで志布志駅から鹿児島空港

 

飛行機は遅い時間だが、体調が悪いときは早く空港にたどり着きたい。もはや「我が家」に立ち寄る予定も入れず、温泉で回復を期待しつつ、早めに鹿児島空港に行こうと考えた・・・

 

 

・・・ごめんね「我が家」・・・さようなら。

・・・建っている母屋を見ることは・・・もう無いのか・・・。

 
 
 
東京への帰路がフラフラな足取りで始まった。
こういう状況のときは、ものを見るのがつらい。
薄目になって、歯磨きをし、髪を整える。もちろん朝食などをいただく気にはならない・・・弁当箱の中には、例のザラザラしたシリアルが入っていたが見ると吐き気がするばかりで食べる気にならず・・・ああ、なんであんなものを持ってきてしまったのだ!
 
マスクで呼吸がさまたげられるのがしんどく、帽子のあご紐もつらい。ノーマスクでホテルを出て、ヨレヨレと歩きながらたどり着いた駅の待合室で温泉行きの「よかバス」を待った。
 
乗り込んだ「よかバス」からは新しくきれいなカフェがみえた。
マスコミの情報では、「東京一極集中、地方には何もない」という論調もあるが、この串間が新しい街へと変わりつつある息吹がわたしには感じられた。欲を掻き立てるような街に戻りたくない、結婚・恋愛相談所の看板が無い街で暮らしたい、うっぷ、吐き気が治らない。

 

「よかバス」はすぐに串間温泉に到着した。

 

 
串間温泉で、さっそく温泉に入る。500円とお安く、素晴らしい施設である。
寝そべるタイプの湯船で横になると、茂れる木々の枝先で黒い蝶々が戯れているのをみた。うーっぷ、げっぷ。森の生き物はめまいに酔ったりするんだろうか?
 
大好きな温泉でも吐き気は収まらず、だれもいない脱衣所の奥で横になり、どうしてこんなことになってしまったんだと嘆く・・・昨日、ドリンクも飲まずに片づけをしたことで、熱中症になってしまったのか・・・早く治らないかなぁ・・・。
 
しかし自分はケチなので、クーポンを無駄にしてはならぬと、よれよれとみやげものコーナーに行った。
中学生男子数名とすれ違う。キビキビと挨拶をしてくれた。職場体験だろうか。
その従順な男子たちの声が耳のなかで反響する。
 
自分が学生の頃を思い出す。甘ったれな末っ子は朝が弱く、与えられるばかりの学びに感謝せず、第2次世界大戦に向かう世界史の頃、低血圧の海のなかで睡眠に溺れていたことを、めまいと共に思い出す。
 
 
少し意識が薄らぐ。うつらうつら、何か不思議な夢をみていた。関係のない友人たちがわらわらと出てきては消えた。風景に夢がさしはさまれ、帰路は夢か現実か、よくわからない。
 
「・・・え、カラスには白いのもあるの?」
 
「・・・Aという治療方法はBに代わってゆくの?」
 
夢のなかでそんな話をしていた。意味がわからない。
 
 
温泉に浸かったあとは、上記のスケジュール通り、串間駅から日南線志布志駅に向かったが、めまいの只中であり、ほとんど写真を撮っていない。
 
帰り道の移動もつねに断続的な眠りの中にいた。日南線で、志布志駅の待合室で、夢を見た。まだ吐き気の収まらぬ志布志駅の待合室で目を閉じると、燕が左右に飛び交っていた。巣があるらしい。
 
グッタリしているわたしのことなど気にせず近くを飛び交う燕。
 
かろうじて撮った写真はこれである。
 
 
 
そのとき、ひらめいた言葉がある。
 
「船には乗るな!」
 
・・・そうだ、志布志といえばフェリー。わたしは、今後も行くであろう志布志に、大阪からフェリーで行くのも良いなと思っていたのだ・・・・が、
 
「他の人がフェリーに乗って楽しめていたとしても、お前は無理だ。船に乗ってはならない。」
 
それは天からのメッセージだった。
乗り物に酔いやすい、すぐにパニックになる、自分には弱点が多いのだということを、先祖は戒めてくれたのだ。無理するな、無理するな。それを教えるために、わたしにめまい・吐き気が与えられたのだ。
 
・・・うっぷ、はい、わかりました・・・・(ー_ー)うぅ。
 
・・・無力を突き付けられるって・・・素敵(ー_ー)うぅ。
 
志布志から鹿児島空港行きのバスのなかで、また眠る。森の中で誰かと笑顔で過ごしていた、あれは誰との思い出だったろう、福山高校前で3人の高校生が乗ってきたのに気づいた直後、また眠りに入る。山道はカーブしながら上下する。霧島から、風景が都会らしくなってきた。国分を経て、鹿児島空港に到着した。
 
 
 
当初の予定より早いバスで来たので、鹿児島空港では時間が余った。
 
やっぱりどこかで休みたいなと思い、「ラウンジ」はどうかと思ったが、「ラウンジ」なる場所は敷居が高いというか自分が行ってもよい場所なのかどうか自信がなかった。
 
 
空港のロビーの片隅の席でずっと眠っていた。ぼんやりした意識のなかで、土産物屋のディスプレイは魅力的だなと感じていた。旅の子どもがアンパンマンのぬいぐるみをねだって、父の肩車でほだされてゆく。
 
 
空港で休んでいるうちにだいぶ回復してきたので、パソコンなどを充電できるロイヤルホストへ行った。この日初めての食事はヨーグルトパフェ。甘い点滴のようで、元気が出てきた。
このあたりでやっとめまいから解放されてきたので、この日初めてパソコンを開いて文書を入力することができた。
 
鹿児島空港で土産を買おうと思い、「かるかん」などを買った。鹿児島の土産に描かれたキャラクターは西郷さんばかりで、西郷さんが愛されているようであった。
 
 
空港では、最終コールがひっきりなしに流れていた。
どこかの綾子さんが、乗る予定の飛行機の保安検査がもう締め切られますとしきりに呼び出されていた。野球帽の子供が「あやこさん呼ばれてるよ」と母親に告げていた。
 
帰りの飛行機はスカイマーク
SKY308便。20時10分発、
4番搭乗口から乗り込んだ。
どうやら無事に東京に戻れそうだ。
 
青い日暮れに見送られ、さようなら九州、So long「我が家」
 
また行きますね、必ず・・・。
 

以上が、三度目の串間の旅の記録である。
 
この旅でわたしが得たギフトは、「旅先の体調不良はつらくて不安だ」ということ。
 
「病気のひとはとてもつらい」のだと、そんな当たり前のことに気づかされた。
知っている人でも、知らない人でも、つらそうな人がいたら症状を思いやってさしあげたい。そう心に誓った。

 

自らの弱さや無力に気づくことは、なんて素晴らしいことだろう。旅はいつも素晴らしいことを教えてくれる。

 

そして翌日には汗だくの衣類とパソコン3台が宅急便で届いた。

 

 

(おわり)

 

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記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。

 

 

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串間から持ってきた本たち

これまでの記事に書いたように、串間の叔父の家にはそれなりの数の本があった。

 

本好きの自分にとっては魅力的でどれも持って帰りたいくらいであったが、そんなわけにもいかず・・・どちらかといえばレアな本を持ってきた。

 

それらの本を紹介する。

 

 

◆「勝てるには理由(わけ)がある」/仰木彬

 

 

 

1997年の本。

仰木監督は九州出身である。

仰木監督は、わたしにとっては80年代後半の近鉄のイメージであるが、この本は90年代後半の本であるので、オリックス時代の話題が多かった。

 

95年の震災と「がんばろうKOBE」、そんな言葉があったことを思い出す。

 

オリックス・ブルーウェーブ 日本一の軌跡」など、懐かしい球団名と思い出。

 

最後のイチローとの対談も信頼関係が感じられて面白かった。イチローのマスコミ批判で、「記者の方々にももっと野球のことを研究してほしい。」という言葉に、仰木さんは「(記者は)イチローの心理や技術についてゆけないんだろうね。本当は僕らが彼らに伝えてやらないといけない部分かもしれんな」とおっしゃっており、そんな思いやりのある言葉が人望の秘訣なのかと感じた。

 

 

 

青木雄二罪と罰 ナニワ人生学」

 

 

 

 

ナニワ金融道」の青木雄二さんの本。

「現象形態と本質」という漫画が掲載されていますが、融通手形・・・当座取引・・・金融に詳しくないわたしにはチンプンカンプンな漫画であった。

 

青木さんも漫画に賭けて成功した”ギャンブラー”。

またアシスタントのなかで漫画家として活躍できた男は、死に物狂いで必死でやったから成功したとのことで、ありふれた結論ではあるのですが、やはり必死にやることが成功の秘訣なのだなと・・・当たり前のようなことだがそんなことを思わされた。

 

共産主義者の青木さん「この世はゼニである」とマルクスから学んだそうである。

 

58歳で肺がんで亡くなっているのか・・・健康だけはゼニ勘定のように思い通りにならないのだな・・・。

 

 

 

 

さだまさし「長江・夢紀行」

 

 

さだまさしも九州人。

少し前のこちらの記事で、さだファンだったわたしが狂喜乱舞した本である。

 

ekiin.hatenablog.com

 

 

 

この本は

「僕の旅は武漢から始まった・・・」

という言葉で幕をあける。

 

自分が高校生の頃にさだファンだったので、この本も読んでいるはずだが、中国という国に関心も知識もなかったため、いまいちわからなかった・・・今ならわかる、新型コロナウィルスで有名になってしまった、武漢・・・だが、高校生の自分にはさだまさしの中国への愛やロマンがわからなかった。

 

あれから何十年か経過し・・・「陶淵明」の存在を知ったり、実際に中国に行ったり、ある程度、地理の知識を得たりすると、さださんが撮ろうとした映像の素晴らしさ、旅によって試みたことの価値がよくわかる・・・。

 

さださんが広大な中国で「マジ」な旅をしてきたことが伝わる写真集。

 

さだまさし、やっぱり、すごい漢(おとこ)だ・・・。

 

芸能界はよくわかりませんが精神的に過酷であろうことは想像に難くなく、曲がヒットして時代の寵児となったさださんが絶頂期にこうして日本を離れて中国に渡り、どっぷりと旅をすること、それは、ご自分の原点を見つめて、日本で疲れた精神が癒される、そんな効果もあったのではないでしょうか・・・(勝手な想像です)。

 

「中国の人と日本人では、外見は似ていても、ものの考え方が違う」

という文もあり、これも今の自分なら理解できることです。

 

重慶のSL(けっこう写真が多い)や鉄道員の青い制服の写真も、なかなか旅情をそそるものでした。

 

駅員、駅員、いいぞ中国の駅員も!

 

 

丸谷才一文章読本

 

 

 

何でこの本を東京に持ってこようと思ったのか・・・忘れたが・・・

やはり自分がものを書くのが好きということで、うまく書くための一助になるのではないかと思って持ってきたのではないかと思われる・・・。

 

さくさくと読んでみると、ふだん何気なく書いている文章というものを、丁寧に分析しており、言葉や文章への強い関心や愛を感じる・・・そんな本。

 

細かいところへの着目もあり、例えば句読点、感嘆符、ダッシュ、などについての言及もあった。

 

 

わたしは文を書くのが好きだが、思いが突っ走りすぎて雑にたくさん書いてしまうタイプ・・・もう少し一文や単語にこだわってもよいのかもしれない、などと反省させられた。

 

(汚れはひどいものの)本の装丁デザインはとても美しく、それも文章読本の一部であるのかと思わされた。

 

 

●吉村久子 歌集「茜雲」「流れる」

 

 

 

地元・宮崎の歌人の本。

 

けっこう重たい本で、捨てようかとも思ったが・・・しかし自分も詩人であり、このような、発行部数の少なそうな歌集は捨てづらい・・・

 

そして読んでみると、歌がとても面白い。

 

義母の介護、芸能人の名前、東京の風景、加齢する自分を鼓舞する言葉、ユーモラスな歌、生命力というか生活力を感じる歌のかずかずでした。

 

「流れる」より。自転車がたくましいイメージを醸し出す・・・。

 

 

「茜雲」より。尼崎脱線事故のこと。

 

 

短歌は簡単そうで難しく自分にはとても書けない。

吉村さんの歌は面白く、パキッとキレが良く、これが短歌の技なんだな・・・と思いました。

 

 

 

●亡国日本の悲しみ

 

 

 

・・・なんじゃこりゃあ。

 

・・・発禁本ではないかと思いましたが普通にAmazonで売ってる・・・。

 

わたしは世代的にはどんぴしゃで・・・ただ大学では原理研のほうが(問題があるという文脈では)存在感があった。

 

駒場の同級生のK君と、本郷でも同じ学部に進学することになり、それなら少し親しくなったほうがいいのかと思い何かのきっかけで渋谷のフルーツパーラーで食事をしたり明治神宮を散歩したりしたら、すごく追いかけられて・・・驚いてしまったことがあった・・・。のちに彼は、女性が誘う原理のアパートに行ってビデオを観たらしいといううわさや、オウムに入ったという噂を聞き・・・その頃、もう学校には来なくなっていた。

一部の男子大学生の女性を求める希望の強さ、それが新興宗教につながる可能性のことを、あまりわかっていなかった。思い起こせば大学生のころ、新興宗教は身近な誰かが関係する、とても身近な問題だった。

 

 

さて、この本では、Nさんが6000万円のお布施をしたというページが印象に残る。

最初の2000万円に関しては確かにNさんにはためらいがあったようだが、次の4000万円についてはゴルフ会員権を売って、「こういうお布施をしたかったんです!」と大喜びで自発的にお布施しているのだ、だからさきの2000万円をNさんから巻き上げたわけではないのだ、との記述があった。いずれにしても6000万のお布施というものが存在したのだなと、庶民の自分には信じられないことであった。

 

 

以上、まとめると、持ってきた書籍の多くは、あの90年代の暗い雰囲気、少し苦い香りのする本たちであった。

 

叔父さん、すてきな本をありがとう。

 

 

三度目の串間の旅 その前のこと(小さな死者の面影を)

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【串間シリーズのあらすじ】

 

独身だった叔父が死んで空き家になった父の実家の片づけをなぜかわたしがすることになった。

 

そこには小さな平屋が2つあり、ひとつは崩壊寸前、もうひとつはそこまで劣化していないものの、中はごみの山で汚れた衣類や猫の死体があるなどひどい状態であった。

 

2度の串間の旅で、ひとまずアルバムなど大事なものは東京に持ってきた。

 

(なお、このブログの記事は創作部分もあり、すべてが実話ではない。)

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九州の蜘蛛はたくましい・・・。

 

 

この記事では3度目の串間の旅について書こうと思うのだが、2度目と3度目の旅のあいだにいろいろな出来事があった。

 

まず相続関係について、司法書士さんが、その土地の登記情報と、相続人関係図を送ってくれた。

 

登記に関しては「共有者」「差押」などの文字もみえ、素人の自分には相続することがとてもおそろしく思えた。

 

相続人に関しては、しばしばいわれるように、関係の少ない(あるいはほぼ知らない)方の名もあった。それらの方にも相続する権利はあり、相続したいかどうか、意向を問わねばならないと言われた。司法書士さんが遺族代表のわたしにそれぞれの方の住所を教えてくれるので、わたしが郵便物を作ることになった。

 

会ったこともない親戚。

ある日受け取る、知らない人からの相続の手紙。

それらの方については寝耳に水、「あんただれや?詐欺?」という郵便物になるだろう・・・そう思われないようにしなくては・・・。

郵便物を作り上げるのにかなり時間を要した。

文章は丁寧に、そして現地の写真を添えて、「串間の実家がこんなふうに崩壊寸前なのですが、相続のお気持ちはどうでしょうか?」という郵便を作り上げ、送った。

 

ほどなく郵便を送ったすべての方より、お電話をいただいた。

みなさん、常識と礼節のある方々で、その点は恵まれていた。

 

とくに小さい頃、お葬式で会ったきりのいとこのお姉さんからのお電話には、懐かしさで胸がじーんとした・・・。気づかいのある声と話しぶり。素敵な思い出が蘇る。

このいとこと没交渉だった理由の一つは父親同士の不仲のせいではないかと疑っている。せっかくきょうだい関係に生まれたのだから、不仲になるのは勿体ないなぁ、きょうだいって助け合うことができ、支えになってくれることもあるし、有難い存在だなぁと思いつつ、浮かれたわたしは「うちの兄貴、独身なんですよ・・・」などとつまらぬことを言った。

 

 

結果的に、いとこのみなさんの意向は「相続放棄」であることを確認できた。

わたしの兄と姉の意向も聞かねばならない。共同で相続するという意見もあったからだ。グループラインでたずねてみると、ふたりともあっさり「相続放棄してもよい」とのこと。

 

そして同時に、実はわたしも相続放棄したかった。

叔父は商売を引き継いでいた代表取締役だったことを思い出し、登記の「差押」の文字を見て不安になってしまったのだ。

 

しかし司法書士さんが言った。

「こうして関わっているあなたひとりが相続人になるのが望ましいです」

と・・・

 

・・・うーむ、借金があったら・・・自分がかぶるしかないのかなぁ・・・。

 

お金のことがあまりわからず、区の弁護士相談に行ったりしつつ、だんだんと、もうこれは自分が相続するしか仕方がないのかな・・・と覚悟をきめた。

 

HAPPY DAYS💛

 

 

3度目の旅の前に、家屋の撤去などを地元の業者に相談してみたところ、たいへん親切に対応してくれた。

「現地を見学したい」というので、「ドア壊れてますので、勝手にどうぞお入りください」と住所を案内したら、すぐに見に行ってくれたようだった。そして見積もりを作成してくれたが、それは予想通りの高額であった。足場を組んだり、通行止めにしたりする必要があるとのことで、それでも良心的な額だったのかもしれない。

 

お金がすべてではない。先祖代々の土地を守り、近所をリスクから守る、意味のある工事なのだと自分に言い聞かせる。そう、すべてはギフトなんだと思うことにしたじゃないか。

 

相続というのは、今や、お片付けの費用が発生する貧乏くじイベントとなる場合が多いのではないか。土地だけならともかく、その上には片付けの必要な「お荷物」がのっかっていることが多く、一時的に数百万の費用がかかる。そこに住んでいれば少しずつ片付けたり修繕したりできるのだが、いきなり遠くの壊れそうな家を相続するなんて、お金も手間もかかり、誰もそんな相続は選ばないのだろう・・・そんな現状を、わがこととして理解できた。

 

(↓)やけになって「負け動産のソーゾクニン♪」という歌をつくりました。

 

youtube.com

 

 

なんで自分だけこんなことしているんだろう?

自分は、自他境界があいまいで、ものごとに適度な距離をおけず、ひとのことを自分のことみたいに考えてしまう・・・できもしないことに口をつっこんでしまい、結局仕事が増えることが多い・・・

 

・・・2017年の父の葬儀に、ものすごく遠いなか、やっとの思いで来てくれた叔父の丸い背中を思い出し・・・それからすぐに認知症になってしまった叔父の親族連絡先になったときからこうなる運命だったのか?

 

でもきっとそれをしなかったら、もっと思い残しもあっただろう。すべて自分が選んだことではある。わたしにはローンがないのでひとまずの出費が出しやすい側面もあろう。しかし、わずかな蓄えの老後資金が減ってゆく・・・。

 

・・・勇気を出して、兄や姉に、「よかったらわたしのCD買って聴いてくれたらうれしい」と言ってみた。

 

しかし、その言葉はスルーされ、CDが聴かれることはなかった。

 

(;;)

 

夫が言った。

 

「聴いてください、買ってくださいというとダメなんだよ、相手を責めてるみたいに聞こえるから。」

 

・・・それなら、黙っていたら音源を買って聴いて貰えるのだろうか?

 

・・・落ちる気分をなんとか持ち上げ、頼まれるままに普通に仕事をし、デザフェスとクロコダイルで普通にしっかりとライブを行い、普通にたくさん音楽作品を作り、普通に働いた。しかし今もずっと消化器に小石が詰まった感じがあり、全体的に食欲がない。第1回の旅で道路の管に落とした小石がこちらに巡ってきたのか、いやはや宮崎の小石が体内にあるのか。

ときには(しばしば)数少ない信頼できる人たちの優しさに救われる、綱渡りの日々。

 

・・・気づくと夫がわたしのCDを買って自分の部屋でずっとプレイしてくれていた。

わざわざどこかのCDショップで買ってくれたようである。

 

そして、君の作品は面白い面白いと言ってくれた。

 

 

 

春ごろ、わたしが正式に相続人となった。

 

相続人となることが決まり、権利書とともに、各相続人に関する分厚い相続関係書類も送られてきた。

 

持ってきたアルバムや書類を参照するうち、祖父や祖母の生年月日、兄妹構成などを知ることができ、また、若い頃の祖父や祖母の顔を認識できるようになった。

 

 

祖父は明治37年(1904年)生まれ、末っ子だったようだ。

わたしにとっては普通の「おじいさん」だった祖父だが、若い頃、ダンディなマスクであったことを知った。

 

昭和2年、23歳かな。

 

どの写真も優しげな雰囲気を持っており、

ときにはイカしたコートでポーズをとりながら写真に収まっていた(左)。

 

 

「おお、おれをよく見つけてくれた、さすが、わが孫だ」

若い頃のおじいさんの写真のまなざしが、わたしの努力をみとめてくれているように感じた。

報われたと感じた。

 

いや、報われたと、感じたかったのだ。はるかな旅路の、疲労の脳裏に。

 

 

(調子にのっておじいちゃんの写真で曲を書いた。)

www.youtube.com

 

一方、祖母はお手紙などを読む限りクレバーな方だという印象があった。

たぶんこれが祖母だろうなと思う写真は以下の1枚であったが、聡明そうな雰囲気である。

 

 

・・・この間の高円寺フリマのときのわたしの服装と似ている。

知らずに祖母をなぞっていたのか?

ありがちな服装なのかもしれないが・・・。

 

 

戸籍を読んでいてわかることがある。例えば、祖父母の結婚はどうやら、長男である父の「授かり婚」だったらしい。

 

また、祖母の父が村長になったことがあったと聞いたことがあったので、その正式名を検索したところ資料があるようだったので、その書類のコピーを国会図書館に求めたりした。そこには顔写真とともに人情に篤い村長であったと書いてあった。

西南戦争のことが書いてあり、自分は歴史や父の故郷について何も知らなかったのだなと思った。

 

2017年6月で止まった叔父の家のカレンダー

 

そして、うすうす知っていた、悲しい出来事。小さな死者がいたということ。

 

あれは2016年、父が死ぬ直前の冬のこと。突然、「宮崎の実家のお骨を厚木のお墓に入れるぞ」と言いはじめ、複数届いた骨壺と、木のお位牌。そのなかにあった、小さな小さな骨壺。

 

それは叔父の弟だったシズオさんのお骨である。

 

・・・いままでこの記録では、先だって亡くなった叔父のことを「末っ子」と書いていたが、じつはその下に、2歳弱で亡くなった叔父がいるのだ。

 

そのシズオ叔父は、昭和19年6月13日、満州国にて出生。

 

以下の写真で、祖父が抱いている元気そうな赤ちゃんがシズオさんである。

 

 

そして、昭和21年6月6日、福岡市にて死亡。

 

わたしが相続人になるにあたり、死亡日と亡くなった地を知った。

 

うちは比較的早めに引き揚げたときいたが、それでも病や死からは逃れられなかったのだ。終戦直後は貧しかったときいたが、そのような中で、祖父母や、父12歳、叔父8歳。小さな弟の死の悲しみは、いかばかりだったろう・・・。

 

今回の掃除でみつけた、1990年代後半の叔父の日記に、それについて短い記述があった。

 

 

シズオの命日。覚えているだけでなにもしてやれない。

 

・・・その死から50年が経過しても、その痛みは消えることはないのだ。

 

祖父母や父の一家は、小さな死者の面影をその心理の奥に隠し、ときに呼び覚まし、おそらくはともに高度経済成長期を生きてきたのだった。

 

奥の深い世界の、ほんの入り口をみたような気がした。

自分はいままで、高齢者を敬う気持ちが足りなかった。年を重ねたひとはそれだけ多くのものをみてきて、その精神にはさまざまな人生ドラマを含んでいるのだ。それに対して敬意をはらい、耳を傾けなければいけなかったのだ。

 

お父さんに会いたい。

 

が、今更言っても遅い。

 

お父さんに会いたい、叔父さんにも会いたい、いろんな話が聞きたい。

 

・・・そう思うときには、手遅れなのだ。

 

今頃、雲の上で、シズオ叔父も含めて、一家で穏やかに過ごしているのだろう。

これもギフトだと思うことにした。

 

 

そして、さっそく下見をしてくれた撤去工事の業者さんが、いちど会って話したいというので、鹿児島空港ゆきの飛行機を予約し、三度目の串間の旅に行くことになった。

 

 

閉所恐怖症のわたし、相変わらず飛行機は苦手で・・・瞳を閉じてやり過ごした。

 

 

(長くなりすぎたので・・・続くっ)

 

 

CD、良かったら、よろしくお願いします ♪

 

LimitedExpress383

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  • アーティスト:松岡宮
  • Candy Recorder
Amazon

 

 

記事は以上です。以下は投げ銭です。

 

 

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南町田グランベリーパーク駅

miya.o.oo7.jp

 

わたしのいまのホームページの画像は・・・

深い意味はないが2018年12月に駅名が決まった山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」である。

 

山手線ではじめてのカタカナ駅名だということでとても驚き、反対運動が起きたりもした。

今でも、開発中でやや閑散としたその美しい駅にはなじめないのだが、ともかく新しく美しい駅であることは確かである。この綺麗にデザインされた駅は、駅の新しい姿であり、その新しい姿に慣れるのに時間がかかるのかもしれない。

 

 

同時期に、カタカナ新駅がいくつか生まれた。

 

例えば、東京メトロ日比谷線の「虎ノ門ヒルズ駅」もそのひとつである。商業施設の名称が入ったその駅名変更はさりげなく、工事中ということもありあまり目立たなかった印象である。そういえば「三越前」という駅名も商業施設が駅名に入っていることを思い出す。

 

そして今回の主役、東急田園都市線「南町田グランベリーパーク駅」も、2019年10月に「南町田」から駅名変更となった、これも商業施設名が入った駅である。

いちおう東京都(町田市)にあるようだが、多摩川を渡って神奈川県に入ったその先の先、終点の少し手前の郊外にある駅であり、イメージ的にはどう考えても神奈川県。

そもそも町田市は、そのようなイメージであるが・・・。

 

Wikipediaには「東京都でもっとも南にある駅」とあり、六郷土手じゃなかったのか・・・大田区民としては驚いた・・・

なんだろう、なぞの敗北感・・・。

 

あまり洋服などの買い物をしないわたしであるが、グランベリーモールというアウトレットが南町田にできたことは知っていた。

 

そのモールに直結していた南町田駅が、商業施設名を含んだ駅名へと変更されたのであった。

 

この駅名変更、「東急らしくない」とか「東急の品位を壊す」などの声がきかれなかったように思うのは、東急田園都市線にはすでに「たまプラーザ」という強烈な名前の駅があるから・・・かもしれない・・・。

 

gbp.minamimachida-grandberrypark.com

 

 

名称について2点、誤解があった。

 

わたしはなんとなく「ランベリー」だと思い込んでいた。

クランベリーモール・・・ベリーが実る畑があって・・・素敵なカフェもあって・・・なんとなくフルーティーで、美味しそうな響きだと思っていた。「そういえば河村隆一って今何しているんだろう」などと思いつつ、クランベリー」ではなく「ランベリー」であることを、のちに知った。

 

そして駅名も商業施設名も「グランベリーモール」だと思い込んでいたが、すでにアウトレットモールを含む施設全体の名称を「グランベリーパーク」へと変更したようであり、施設名称も駅名も「~モール」でなく「~パーク」なのであった。

 

渋谷にもミヤシタパークという名の商業施設が出来たが、商業施設に公園的機能がそなわり、運動できる場所を含んで拡大しつつある近年の傾向をあらわしているともいえる。

これは例えばサブカルショッピングの集約地のような「中野ブロードウェイ」とはずいぶん違うコンセプトであり、ファミリー層へのアピール、運動・身体性の重視、風景や実際の体験の重視といた趨勢が感じられた。

 

「南町田グランベリーパーク駅」は駅名変更時に平日も急行が停車するようにダイヤ変更がなされたらしい。どうやらこの駅は東急の近年の「推し」駅であり、みんなこの駅に来てくださいと言わんばかりに、スヌーピーの絵の描かれたポスターを矢口渡駅でもよくみかける。質素なシュルツ氏の描線が「東急のるるん商戦」に組み込まれてゆく。

 

その魅力は失わぬまま、巧みに、するりと、情報はこの脳の認知へと進む。すなわち・・・ピーナッツミュージアム行ってみたい!

 

 

この駅名の最大のポイントは「長さ」。東急田園都市線の路線図で確認してほしい。

 

 

・・・他の駅名の2倍はあるぞ!

 

・・・たとえば、あるものが大きすぎて存在感がなくなる場合があるのだが、それと同じで、長すぎて見過ごしてしまいそうな駅名ではある・・・。

 

高輪ゲートウェイ同様、新しい駅のありかたが広がってきている。名づけは最初の大仕事であるが、その名づけはいま、さりげない伝統をそっと置くようなものではなく、これからの意思表明のように長大な名前になってきている印象をもつ。

 

商業はもう堂々と前に出たがっている。ひとを飾り、分類したがっている。シュルツ氏の好感度の高い描線をもって、東急はこういう(美しい時代へ)世界を目指しています、あなたもがんばって東急にふさわしい人になりましょう!との声をしゃれたフォントで届ける、そうですよ、わたしは東急が好きなの、スマートな駅員さんが好きなのよ、なんて、わたしもワンと鳴く、もはや東急の犬だ、だってわたしは青葉台育ちの桐蔭学園卒・・・この郊外文化を浴びて育ってしまったのだから・・・・。

 

「南町田グランベリーパーク」。

この新駅に行くチャンスをうかがっていた。

 

 

そんな折、友人が猫と一緒に南町田グランベリーパーク駅に住むようになった。

ちょっとした機会があったので、こちらからお願いをして立ち寄らせていただいた。

 

目的その(1)

変更された長い駅名を「しか」と見届ける。

 

目的その(2)

友人宅に猫ちゃんがいるので、遊ばせていただく。

 

いずれも友人が了解してくれた。ありがたい。

わくわくしながら猫のおもちゃを手作りした。カバンの持ち手のスペアに魚型ぬいぐるみを縫い付けたものである。遊んでくれるかな?

 

遊んでくれるかなあ・・・。

 

 

ざつな弁当を作って、いざ行かん。

 

 

我が家からは、東横線から大井町線に、自由が丘で乗り換えである。大井町線田園都市線に直通するようになり、便利になった。

 

 

この写真は大井町線自由が丘駅二子玉川寄りの風景。

いままでなんとも思わなかったが、こうして写真を見ると、自由が丘は小さなお店がごちゃごちゃと存在する街である。これから向かう新興住宅街とは違う風景だ。自由が丘も再開発がはじまりつつあるようではあるが、こうした昔から発展してきた人気の町ほど、再開発はあとになるのかもしれない。

 

ちょうどよく、急行の中央林間行きがやってきた。6000系だ。

 

 

ツンとすましたフェイスがかっこいい急行。自由が丘を出たら二子玉川までノンストップのいさぎよさ。レコーディングでよく降りたスタジオのある等々力駅を通過。このあたりは地面をトコトコ走るので沿線風景に溶け合い、スピードはそれほど早くない。

 

すぐにゆるやかに二子玉川駅に到着した。そこから座れたのでタブレットでの読書がはかどる。この日は平日の昼間だったが、比較的すいていた。通勤地獄で知られる田園都市線だが、通勤時以外は風景もよく、すいているときの田園都市線は本当に良い路線だと感じる。そしてやはり自分が育った沿線という気がする。

 

ほどなく「南町田グランベリーパーク駅」に到着した。

降りる人もそれなりにおり、それらの人々について降りた駅の様子は、予想以上にショッピングモールだった。

 

ここでは駅が、施設のひとつなのだ。

駅に何かが付帯するのではなく、ショッピングセンターのなかに駅があるという雰囲気である。

 

駅名表示は予想以上に横長だった。

この冗談のような「みなみまちだぐらんべりーぱーく」のひらがなの列を見ただけでなんだかすごいものを見てしまった気分。じゅげむじゅげむ。

 

横に長い特注の駅名板なのではないか・・・?

 

 

駅の待合室もやけに綺麗で、他の駅の待合室よりも広い印象である。

 

 

そして集客パンダのにおいをさせながら「スヌーピー」がホーム内に鎮座している・・・大きい・・・君は、大型犬だったのか?

 

この写真の左側に少しみえているが、階段には光による「のるるんアート」が色とりどりに変化して昼間からまばゆくきらめいている。その技術は素晴らしいなと思ったのだが・・・

 


SDGsトレインを走らせている東急、この光のアートはいかがなものか・・・と思わないこともなかった。

 

グランベリーパーク自体、初めて来たが、あまりショッピングに関心のない自分にとっては、「駅名が横に長い」ばかりが印象に残ってしまう。

 

このガラスばりの横長駅舎はいつかみたフランスのアヴィニョン駅を思い出した。

 

 

だけど綺麗な新駅は良いものだ。心がフレッシュな気分になる。

 

すぐに友人が迎えに来てくれて、グランベリーパークをあれこれ案内してくれた。(ありがたや)

 

印象としては、見た目より広くて大きな施設だった。

例えるなら川崎ラゾーナや海老名のビナウォークのように、物理的に奥が深く、まるでひとつの街のように多様な施設がそこにあった。

 

わたしは服のブランドにも詳しくないしアウトレットというものもよく分からないのだが、見た感じではそんなにお高いショップが並んでいるわけではなかった。友人と「コムサの黒くない服が3900円だ~」とかはしゃいで、うっかり買いそうになってしまった、というか、買えばよかったかも・・・。

 

カフェもあったし本屋さん、映画館など文化的なスポットもあった。イートインスペースも充実していることを友人が教えてくれた。一日居座って読書するのも良さそうだと思った。多くはファミリー向けの空間で、家族連れをターゲットにしている施設だと感じた。

子供がかけまわったり噴水で遊べるように設計してある広場もあり、たくさんの子が水遊びをしていた。

いかがわしい雰囲気のお店は・・・なかったように思う。

 

友人が、見晴らしの良いところに案内してくれた。

 

 

ススキの穂が夏の終わりの日差しに透ける。

松岡家の墓のある大山がみえる。左右で角度の違うこの稜線、厚木にいたころよく見た風景。なんとなく手を合わせた。

 

 

友人のNAVIによるはじめてのグランベリーパーク探訪、質の良い空間を楽しんだ。

おしゃれな服を買ってみようかな?など、いろんな意欲が生まれてきた。そう考えると、やっぱり服屋さんの多さが印象的だったのかもしれない。

 

 

もうひとつの目的「猫と遊ぶ」も、友人のおかげでとてもうまくやれた・・・(ように思う)。

 

・・・友人宅の2匹の猫ちゃん、遊んでくれるかなぁ・・・と悩んで、叔父の遺した「猫の気持ちがわかる本」を読んでから行った。

 

あまり前に出ず、しつこくせず、さりげなく接することを心がけながら、冒頭に書いた手作りの猫のおもちゃ、ぶらぶらさせると、飛びついてくれたり、走ってきてくれたり、気を使っていたのかもしれないが、ともかく遊んでくれた。

 

あー、よかった。

 

抱っこは苦手な様子だったが・・・

 

 

貴重な猫との時間、調子にのってショート動画を作ったりした。

 

youtube.com

 

2匹いらっしゃったが(敬語)、とても毛並みが柔らかく、改めて猫っていいなあと思わされた。

こちらのライブ告知写真も、友人宅で撮ったもの。

 

 

友人にはいろいろお世話になりっぱなしで、お手数をおかけしたが、わたしのひどい弁当を美味しい美味しいと食べてくれた・・・やさしい。

ありがとうございました。

 

 

そのようなわけで、とても楽しく、発見のあった南町田グランベリーパーク駅の休日であった。

次に行ったら、ピーナッツ関連をはじめ、もっとゆっくり店舗をめぐり、美味しいものをいただきながらのんびり読書したいと思う、が、貧乏性なので仕事とか勉強とかしてしまうのだろうな・・・。

また行く日を楽しみにしています。

 

 

文中にもミヤシタパークの話が出てきましたが、次回ライブは渋谷ミヤシタパーク沿いの「クロコダイル」にて、9月4日(月)です。

 

crocodile-live.jp

 

19時~22時のどこかで15分。今あまりライブはしていないので、この機会にぜひ会いにきてくださいね☆

 

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記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です

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北中夜市8月号(松岡宮は51歳)

 


今年初めての高円寺・北中夜市。

 

CD販売と「あなたの言葉で唄づくり」をすることは決まっていましたが・・・夜の市ということでなんとなく明るいブースにしたくて、ぴかぴか光る電化製品を安売りすることにしました。

 

名付けて「松岡宮デンキ」。

電子音楽をやってるから、コンセプトとしてはつながってる・・・・かな?

デデデン。

 

 

周囲のブースは賑やかでカラフルでした。

ハンドメイド作品を売る方も多く、外国語も聞こえてきました。

ふつうのフリマのような雑然としたブースは少なく・・・そんな古めかしい雰囲気のブースはわたしのところだけかも・・・やっぱり、高円寺、アート風味。

 

みなさん街の常連さんのようで互いに知り合いであるご様子・・・なぜかわたしにも気軽に話しかけてくださいました。いま少しだけ前髪に青色が入っているのですが、その色イイね!なんて言ってくださる方もありました。

 

わたしの売っていたCDを手に取り、わたしのファッションも少し固い衣装でいったので、ガチのアーティストだぁ、なんて言ってくださる方もありました。

 

この街では服装も髪色も、派手にしていいのだなぁと背中を押される街です。

 

通りかかるのは若い方が多いという印象を持ちました。

カップルも多し・・・。

にぎやかだなあと思いましたが、これでも予想より少ないほうだったみたいです。

 

 

路上DTMのノウハウも出来てきました。

昔から、路上でDTMをやりたくて、昨年そのためだけにパソコンを買って、昨年10月の高円寺が路上作曲デビューでした。それから、できるだけ荷物を減らし、バッテリーを加え・・・いろいろ進化しています。鍵盤を置いてますがパソコンのキーボードで演奏することも出来ます。このDELLの音楽用ノートを買ってから、出先やちょこっとしたところで音楽作業をするのがはかどるようになりました。ちなみにパソコンは軽く小さく性能が高いものを探してましたが、ディスプレイに1か所ドットノイズがあり安かった新古品を購入しました。TypeCで充電できます。

このPCを買ったおかげでYouTUBEショートやTikTokの製作もすっかり慣れてきて、DTMを持ち運べ、自分の精神のすべてが歌を生み出すBODYになりつつあるのを感じます。ミュージカルというものがありますが生活上の言葉ってほんとは歌なのではないかと感じられます。岡ノ谷先生の本にもすべては歌から始まったという旨があり、言葉より前に歌ありきだなと思う次第で・・・

 

路上で音楽を売る。

 

そう決めたのです。

 

が、

ただ、

ひとりでフリマだとなんとなく「坊主」を防ぎたくて10円のブツなどを用意してしまう・・・今回も「松岡宮デンキ」のコンセプトにあう不用品をわちゃわちゃと出しました。

でも、結果として、高円寺では10円だからという理由で関心を持つ方は多くなかった印象でした。安いからというより、キャラクターものだったり、オモシロイものとか、そういうものが売れる街という印象を持ちました。

 

ちょっと、なんというか、弱気だった自分に気づきます。

 

この写真の光るEVAのヘッドフォンは、売れそうで売れなかった。とほほ。

 

 

詩人の青条さんが手伝いにきてくれました。わたしには高度な文芸の場所に思える早稲田一文を出た方です。わたしの写真を撮ってくださった。

青条さんの動画とかNOTEとかすごいクオリティのものをすごい分量で作っておられますが、それを見るとわたしも頑張らなきゃと思わされてたくさん作品を仕上げることができ、つまりそれはライヴァルなんだなと気づきました。ライヴァルは敵じゃないのです、高いレベルで認め合うことができる相手。ライヴァルのあることは幸せなことだ!

 

手伝いの方がいらっしゃれば、なんか「坊主」でもいいや・・・・という気になります。でもせっかく創作人が2名いるのならそのコンセプトを打ち出す看板とか店構えとか作れたらよかったと思ったりもしました。(来月はぜひ。)来月すでに埋まってた・・・。すごい人気。

 

子どもさんたちがよく立ち寄ってくれました。

交通誘導の方のもつ赤く光る棒が大人気でした。ちょっとお高い設定にしてあったので、買われることはなかったですが・・・幾人かの子どもさんが、これほしい、これほしい、と、もっとも人気がありました。青条さんが「こういうの好きな気持ちわかります」といって振り回してました。

 

そのほかお子様に、電卓や、ポケモングッズが売れました。

計算が好きという子どもに「1+1ができるの?すごいねー」と言ったら、「100+100もできるよ」って得意そうな顔・・・高円寺学童は優秀です。

 

ブース代が1000円で、格安電化製品が売れないことはなかったものの、予想よりも赤字でした。わたしの人生はいつも計算ミスです。

 

 

いつかのフリマで隣だった方が向かいにいらして、「あの時の方ですよね、前髪の色でわかりました」とか声をかけてくださいました。

前髪の色・・・

高円寺では髪色に関連するイヴェントが多い気がします。(「高円寺のブラックジャック事件」とか)

 

フリマの話などしてなんだか知り合いになってしまった。

いつもぜんぜん売れないですけれど、ひろい東京でもフリマをやっていると顔だけ知ってるとかそういうこともあり、へんに人の輪だけはつながってゆくのでした。

 

それは奇跡のように素敵なことかもしれない。

 

 

活気のあるなかに身を置いて、ふと精神が静かに落ち着くようなときもありました。

自分はいまどこにいて何をやっているのだろう?・・・などと、旅人気分になったりして・・・振り返れば自分には影がないな、この身も消えつつあるのかなと思ったりして・・・。

ほんとに若々しい街、高円寺。

感じのよい、アーティスティックで若い雰囲気に囲まれ、こうしてコロナ前のように、頑張ってブースを出せただけで有難いことだなと思います。

 

ヨシ来月も出すぞ!

来月9月の枠はもう埋まってしまったそうで(はやいな・・・)、9月は参加いたしません。

 

 

お世話になった皆様ありがとうございました。

 

 

高円寺のおとなりといえば中野。中野タコシェさんにも立ち寄り、精算をしてまいりました。

売上を受け取り・・・ぎゅっと握る・・・。

 

お買い上げくださった皆様に心から感謝です。

 

許可を得てわたしのCDコーナー撮影させていただきました。

 

 

松岡宮のアルバム4種(グリーンのCDも松岡作品)、三上寛さんのおとなりで販売しています。

 

こうしてみると、松岡宮はタコシェさんでかなり大事にしてもらっているなあと思います(;;)ありがたい。

中野ブロードウェイ3階に行かれた時にはぜひチェックしてくださいね。

 

なおタコシェ通販ではCDは「エメラルドグリーン区」だけ販売していました。

 

taco.shop-pro.jp

 

 

 

またそのとき、タコシェさんにあった「東京フリマ日記」の在庫を少しだけこちらに

戻し、わたしのBASEのほうで在庫切れだった「東京フリマ日記」の書籍版の販売を再開しました。

 

383.thebase.in

 

この本、かなり好評をいただいておりありがとうございます。

いまなら書籍版がお求めいただけます。

 

CDが売れない松岡が売れないままに人々と否が応でもつながってゆく、そんな悲哀をユーモラスに描いていますが、先日、さる読者さんと話をして、この本に書いてある実家片付けの記事が役立ったようでした。すごい熟読してくださったんだなと感激しました。

 

 

ライブいくつか決まりました(↓)。

クロコダイルでは、はじめてTikTokメドレーを予定しています。戦争体験のメドレーですがマザーグースみたいな感じです。

ライブで聴く音は良いと思います。クロコダイルは禁煙で飲食も充実した、比較的広いところでおすすめです。

ライブ会場でお会いしましょう!

 

 

 

 

記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。

 

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二度目の串間の旅のこと(2)【閲覧注意/猫死体】

荷物ちらかるホテルで自撮り。にゃー。

 

 

【これまでのあらすじ】

 

このシリーズは、独身の叔父が死んで誰もいなくなった父の実家の片づけをしに行った記録であり、この記事は、2度目に行ったときの記録のパート2である。

 

2度目に行ったときの記録のパート1は、こちら。

 

ekiin.hatenablog.com

 

敷地には「母屋」と「離れ」があり、崩壊寸前の母屋に猫の亡骸を2匹見つけたので、仏壇に弔った。

そして「離れ」に来たところから、この記事の、はじまり、はじまり。

 

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「離れ」も母屋と同様、小さな平屋建てである。母屋ほどではないが、中身はやはりどこか荒廃した雰囲気が漂う。

 

前回来た時に少し片付けて、このような状態であった。

 

 

写真にも写っているが、時間をかけて構築された広大な蜘蛛の巣が天井から広範囲に幕を下ろし、室内や窓辺を、ここは人が住めない部屋ですよと語るように飾っている。どこかおそろしい。「魔」がいる。 ”東京から獲物が来たぞ” 目には見えないが虫たちがささやきあっているような気がする。

 

床にはなんだかわからない土くれ、紙くず、わらくず、ティッシュのくず、キャットフードのかけら、虫の死骸、ごみ等が落ちており、歩くとそれらが心身に付着する。ひとが住まう床ではなかったし、簡単な掃除でなんとかなるレベルではなかった。叔父には悪いと思ったが、靴のままで歩行させていただいた。ここを裸足で歩いたら、もう違う世界に吸い込まれて、戻ってこれないような気がして、この世界観とはいくぶん、距離を置いたほうが良いと察知した。

 

そう、なぜかわからないが、ここにずっといると心身が疲弊する。息が苦しくなる、呼吸が浅くなる。何かがそこにいるような気がして油断ができない。6月で止まったカレンダー、7時37分で止まった時計。そこにも蜘蛛の巣がみえる。生き物は何もいないようにみせかけて、この空間は何か生きているものがいまだに漂っているのではないか。

 

”東京から獲物が来たぞ”。

 

とても恐ろしいことが、始まるのではないか・・・。

 

と、そこに、降ってきたのは蜘蛛の死骸!

 

しかも、大きい・・・。

九州の虫は大きい気がする・・・。

 

この一間の離れのもっとも奥には扉のついた事務棚があり、半開きになった扉からは茶ばんだ「知恵蔵」や文庫本たちが見える。この棚は部屋の奥にあるため、1回目に来た時、蜘蛛の巣などに阻まれて手が回らなかった部分だ。

 

今回はきちんと片付けなくては・・・と思った。

 

 

みてのとおり、この部屋は、なんだかわからない道具たちで丘ができて、下着を含む衣類たちで山や谷ができている。からみつく電気ケーブルで川ができており、キッチンの床にはペットボトルの海ができている。

 

・・・晩年、叔父はその海で溺れていた。

もがけども、もがけども、岸に辿り着かず、ペットボトルの潮の流れに吸い込まれる、認知症の叔父の手足、そして意識。

 

・・・本当はこの旅で、床を埋め尽くしていたペットボトルの山を廃棄しようと考えていたのだ。だが、その分量があまりに多く、ペットボトルを前に立ち尽くしてしまった。いずれ家屋全体の片づけを行うと考えれば、そこに労力を割くのは割に合わないと思われた。

 

 

ペットボトルの海のなかに、同じ殺虫剤が何本も立ちすくんでいた。

最初は、なぜ ほとんど減っていない同じ殺虫剤の缶がこんなにたくさんあるのだろうと思った。

 

ふと気づいた、それが認知症なのだ。

 

この同じ殺虫剤の本数が、叔父の苦労を物語る。

きっと、ゴキブリをはじめとした虫たちがこの家には巣くったことであろう。叔父は、なにも虫を気にしないわけではなかったのだ。虫だらけの家が不快だったから、こうして殺虫剤を買って対処しようとしたのだ。

 

「虫が出ないような生活を送るように努める」・・・そんな根本的な対策を行うことができず、誰もそれを手伝うこともなく、つぎつぎに現れる虫に対策をしなくてはいけないと思って買ってくる殺虫剤、殺虫剤、また、殺虫剤・・・・。

 

記憶機能や遂行機能の弱った叔父が取った対策のあかしなのだ、この殺虫剤の山は。

 

人間が自然に圧倒され征服され追い立てられる死への旅路において、わずかに抵抗した剣なのだ、この殺虫剤の山は。

 

そして部屋の片隅に馬糞が落ちている。さすがは都井岬をもつ市である。否、馬糞じゃない。乾ききって、匂いなどは、もう、ない・・・

 

・・・まちの福祉の方には、とても丁寧によくしていただいた。だけどこうして部屋を片付けていると、もう少し早ければ、と、思わないことも、なかった。自分だって何もできなかったし、ときには「また叔父のことで書類が来た、面倒だなぁ」なんて、思ってしまった。

 

 

そう、叔父の生前、病院や施設から、「面倒だな」と思うくらい、書類がたくさん届いた。

 

今わずかに残った書類、病院からの封筒には、「心筋梗塞」、「アルツハイマー認知症」という診断名が残されており、拘束すること(つなぎを着ること)の許諾と、万一のときに延命措置をしないということへの許諾を求めていた。

 

 

こうして亡くなってしまえば、「面倒だな」なんて思った自分を悔いてしまう。ひとつの命が終わるということはその方へと続く星の光の道がそこで終了するという大きな事態である。その方が孤独で類縁に恵まれていないならなおのこと、そこまで続いていたはるかな流れがそこでばっさりと途切れることを意味するのだ。

 

独身、末っ子。叔父の輝きの星の砂を、さらさらと自分に手に包み込む。その弱い光は暖かい温度を放ちながら、虫たちといまは共存し、すっと静かに消えてゆく。わたしに何かを訴えかけるように、とても、暖かい光で。

 

叔父が、というより、目には見えない何かが、自分にギフトを送っている・・・

 

串間に来てから、そんな思いが止められない。

 

亡くなった叔父からのギフトだろうか?昭和54年のお葬式のとき、わたしを遊びに連れてゆけなくて申し訳なかったから、いまこうして串間にきたわたしに、何かプレゼントを届けてくれているのだろうか?

 

たとえば・・・猫ちゃんのごみ捨てを見つけた。

 

 

つくづく、叔父は猫好きだったのだなと気づかされる。

ええ、わたしも猫が好きですよ。叔父さん、ありがとうね。

 

そして奥の棚の整理にとりかかる。

文庫本が詰め込まれた最上段を片付けていると、そこには「ネコと気持ちが通じあうちょっとしたコツ」という本があった。

 

 

つくづく、叔父は猫好きだったのだなと気づかされる(2度目)。

 

・・・いや、猫が好きなわたしに、この本をプレゼントしてくれているのだろうか・・・いま・・・?

 

もしかしてこれもギフトか?と思ってぱらっと読んだら、なかなか面白く、役立ちそうな本であった。

 

そして、「タバコはなぜやめられないか」という文庫本もあって、苦笑した・・・。

 

 

・・・なぜなら、ベッドのマットレスや枕に、タバコの焼け焦げが数多く残っていたからである・・・。灰皿と、吸い殻も多く残されていた。寝たばこで焼死しなかっただけ、運がよかったようだ。

 

・・・この本はギフトではなさそうだな・・・。

 

 

そして、文庫本のなかに、こんな本を見つけて、狂喜した!

 

さだまさし「長江・夢紀行」!

 

・・・ほら、お前、さだまさし好きだったろう・・・?

 

とでも言っているような優しい叔父の顔が浮かぶ。

 

(あ、あ、ありがとう、な、何で知ってるの・・・・は、はははは・・・(照))

 

いやはや、本当に、誰かがわたしにギフトを送ってくれているんだなぁと、このとき確信したのである。ちなみにこの本、読んでみたらすごく面白くて、さだまさしの凄さを再確認したのであった。

 

 

また、奥のほうの床を掃除していたら、蜘蛛の巣とわけのわからない埃や土くれの隙間に、なにやら、ネコのような、あやしい影をみつけた・・・。

 

 

・・・何しろ、これまで2匹の猫死体を見つけてしまったので、ここにも何らかの死体があるのではないかと、身構えてしまったが・・・

 

にゃー。

 

それは、口を開けてかわいらしく鳴いている、仔猫のオブジェであった。

 

にゃー、みつけてよー。

 

うむ、かわいい。

(かわいい かわいい こねこちゅわーん♪)

つくづく、叔父は猫好きだったのだなと気づかされる(3度目)

これこそ、まさに叔父からのギフトで・・・猫好きなわたしのために、ありがとう、と手を合わせる。

 

ちなみにこのオブジェは事務所に持って帰って綺麗に洗い、いまわたしの目の前に飾られてある。

 

 

その日はごみを捨てられる日で、お布団類を捨てたいと思った。

ただ、ゴミ捨て場まで少し離れているなぁと思ったが、そういえば庭に「荷車」があることを思い出した。

 

うち捨てられてあるが・・・。

 

これを使えば、お布団類をゴミ捨て場まで運ぶのにちょうどよいということに気づいた。

からみついた草を引きちぎって、持ち手を両手でもちくるりと返し、ごろごろと引きずる。重たい。当然タイヤにほとんど空気は残っていなかったが、それでも運ぶのにとても役立った。

 

布団をゴミ捨て場に一度に何枚か運ぶことができ、これもギフトだな、ありがたい・・・と思いつつ、すごいことに気づいてしまった・・・

 

・・・これも「ネコ」じゃないか!

 

・・・ネコが好きなわたしのために、叔父や先祖がたくさんのネコを用意してくれたのだと感じることができた。

 

 

この宮崎の地方都市は自然が豊かだ。大きな家のあいだに広々とした草原が広がっており、2月というのに緑濃いその草の風揺れのあいだに地域猫が気持ちよさそうに佇んでいた。

それはまさに、アンドリュー・ワイエスの絵画の世界だった。

ここは猫が住みよい街なのかもしれないと感じ、わたしもここに住みたいような気になってきた。

 

 

しかしこのあと、衝撃的なものを見つけてしまう。

 

 

前半に出てきた写真を再掲する。

 

 

部屋の左奥の本棚。

 

蜘蛛の巣が撚り集められ、茶色にゆらめいてゆく手を阻むが、勇気を出して蜘蛛の巣を切り刻み、空間に風を入れながら片づけを行う。そうすることで魔を払うように。

 

この左奥の棚の片付けもだいぶ進んだ。文庫本を取り出してだんだんすっきりしてきた。さあ、棚の中の片付けもあと少しだ、そう思って棚の上段の奥を覗いたときだった。

 
本棚の最上段にふわふわした白い毛がみえた。
 
文庫本の上に、小さいけれど、確かに哺乳類の頭蓋のようなものが・・・毛皮とともにある・・・
 
 
・・・これは・・・またしても・・・
 
 
 
 
以下、閲覧注意。

 

 

 

 

 

にゃー、みつけてよー。

 

 

 

 

 

それは、棚に入れられた仔猫の亡骸。

それは、本棚のいちばん上にしまわれた、文庫本と同化する、仔猫の亡骸。

 

(かわいい かわいい こねこちゅわーん♪)

 

ギャアアアアアア!

 

見つけた瞬間、叫んでしまった。

 

 

 

ひとりぐらしで認知症をわずらう方が猫を飼ってはいけない!

 

 

 

・・・いや、これも、ギフト、なのか?

 

「ほら、お前、猫が好きだろう、ほらほら、仔猫だよ・・・」って、叔父が、言っているのだろうか?
どうして本棚の奥に仔猫の死骸があるのだろう・・・その経緯を想像したら、身震いがした。亡くなった小さな命たちに申し訳なくなり、また、仏壇に供えて、手を合わせた。
 
 
そろそろ帰る時間となった。
 

 

これは、わたしからこの街へのギフト。
 
「この家は危険であり、入ってはいけない」と伝えることが、その時のわたしにできることであった。
 
「マジックペンないかな?」
そう思ったとたん、散らかった部屋にすぐ見つけることができた。
「はい、ペンだよ。」
これも叔父からのギフトだろうと思い、遠慮なく「ネコ」に描く文字。
 
「キケン 入るな」
 
 

 


これが、わたしにできる、数少ないことだった。
 
 
この日は出来る限りの片づけを行い、一族の写真アルバム、叔父の日記と、いくつかの書類を東京へと送った。
 
この時点で相続については何も決まっていなかったが、司法書士によって相続に関係する人間が誰であるかは知らされていた。親族への連絡等の作業はわたしにまかされていた。まだまだ旅が続くものと思われた。
 
お骨は東京のわたしの家に置かれたままである。
 
 
 
(「二度目の串間の旅のこと」 おわり)
 
 
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◆松岡宮からのお知らせ
 
 

 
芸術の秋、ライブ予定です。
 
 
◆9月4日(月)原宿クロコダイル「ウクレレエイド」
 
19時~22時のどこかで15分
Music Charge 500円+オーダー
(クロコダイルさんは「原宿」と名が付きますが、渋谷のほうが近くて行きやすいです。ほんとによいお店。)
 
◆11月12日(日)Design Festa 58
 
屋内パフォーマンスエリア。15分。夕方です。
 
 
2つのライブは、いずれもTikTok(ショート曲)メドレーに初挑戦します。
楽しみです。
ぜひご覧くださいませ。
 
 
また、8月20日(もうすぐだ)は高円寺・北中夜市。
CD販売&路上で言葉をいただき歌作りいたします(投げ銭)。
今年初めての高円寺、楽しみです。
 
 
無名で若くない女性ソロアーティストが創作やライブを行い続けるのは珍しいといわれる。わたしは自分の作品が好きだし誇りをもってやっているから続けられるのかと思いますが今回の記事によれば誇りじゃなく埃があるのかもしれません、けほけほ。
 
 
 
記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。
 
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本と音楽(8月11日)

このところ読んでよかったなーという本の備忘録です。

 

●カラー図解 脳の教科書

 

この本はフルカラーで、口絵、写真や図がとてもきれいです。珍しくKindleで買ってしまった本でした。

 

比較的新しめの本なので、現在までの脳に関する知見をわかりやすく、ある程度専門的なところに踏み込んで紹介してくれます。脳の障害についての章もあり、ちょっとしたコラムも読み物として面白く、本当にすぐれた「教科書」ですね。

わたしの講義で引用させていただくかもしれません。

 

 

●紛争でしたら八田まで(1)(2)

ウクライナの問題が始まったときに、ウクライナ編を含む1~2巻が無料で、読んだら面白かった本でした。

なんというか、自分は世界のことを何も知らないから勉強になるし、日本ではなく世界のなかに自分は生きてるんだなと思えたし、語学を学ぶことに背中を押された・・・???

世界にはそれぞれの国があり、国や地方には文化があり、紛争がある・・・。その現実に背を向けることはできないのですね。

そして、こういう漫画、好きなんだなと思いました。

 

 

●「不登校の子どもと保護者のための<学校>」

 

 

2015年の本。文科省の統計によれば、そのあたりから不登校がぐいぐい増えています。

 

そのような中、奈良にある不登校専門校ASUの取り組みを紹介する本書ですが、非常にきめの細かい、子どもの心理に寄り添った描写が印象的です。


個別の事例も描写が豊かです。保護者とのかかわりについて、時にネガティブな思いをすることも含め誠実な記述が多い印象があり、また、子供の話を待てずに伝えようとしてしまう「教師のかまえ」から脱却した方の例も印象的でした。


理想論ではない、現実的な記述が多く、そうなんだ!とか、あるあるかもー、なんて共感しながら読ませていただきました。

 

 

●戦争は女の顔をしていない(1)
独ソ戦を経験した女性兵士の語りの漫画化。
生理用品もないのでズボンが血でカチカチになってしまったという、女性ならではの経験に加え、戦争の悲惨さに、寒さが加わる点が印象的でした。例えば狙撃兵になった女性は12時間以上も雪の中に横たわり、体も凍りつきながら人を狙撃したという経験を語ります。朝になって、雪に覆われた死体の多くが手を上に上げていたという記述のリアルさに、戦争の苛烈を感じます。
 
また戦争が終わっても後遺症は重く、「何もかも1からやり直さないといけなかった、スカートをはくのも買い物も」という言葉に表されています、「戦争は真っ黒で何も覚えていない」という言葉にも。
 
そのような中で、恋愛も語られます。死が身近であることは、人を愛させる側面もあるのかな・・・などとつまらぬことを思いました。

 

 

 

坂口安吾の有名な小説ですが、これまで読んだことが無かったので、近藤ようこさんによる漫画化したこちらを読みました(マンが好き)。おかげでこの有名な小説のストーリーを今更ながらはじめて知りました。

 
「男は都が嫌いでした・・・」という言葉が印象に残ります。男の孤独な心象、女にぐらつく優しさというか、弱さが印象的で、なんとなく男のほうに感情移入してしまう漫画でした。

 

 

「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」

 

 

わたしの親友がやけに登場するというので読んでみましたが・・・思ったより登場していて笑った・・・活躍やん。

 

目の見えない方とアートを見にいく、という題名ですが、そもそも読者だって筆者とアートをともに見に行っているわけではないので・・・なので実際の絵のコピーが付録についていたのはうれしかった。

 

障害の本というより芸術の本という印象を持ちました。社会的に知らねばいけない負の出来事を、アートで心に刻む・・・芸術の出来ることを実感した本でした。

 

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●感動したSONGなど

 

近年は原則として英語縛りで音楽を聴いており、歌を楽しんでいない気もしますが・・・・そんな中で「いいな」と思った歌の備忘録。

 

今夜はフィジカル

 

youtu.be

 

わたしは最近この歌を、予備知識なく、なんとなく知ったのですが、「なんといい唄だ!」と感動して、2度3度と聴いてしまいました。

こういう派手でポップな展開の歌が好きなのですよね・・・・。

 

この曲が出た83年は日本に居なかったので知らなかったのだなとわかりました。

 

 

●The Windmills of Your Mind

 

youtu.be

 

唄や音楽が好きなわたしは、映画やアニメの主題歌なのに歌だけ知っているということがよくあります。この歌も、華麗なる賭けという映画の主題歌?であったことを最近知りました。

すごく小さい頃からこの曲のメロディだけ知っており、風に木の葉がくるくる回るような美しいメロディがずーっと心に残っておりました。

 

題名も歌詞も分からぬなかで、このメロディに勝手に歌詞をつけたこともありました・・・

 

・・・僕の仕事は掃除すること

・・・完膚なきまで掃除すること

・・・僕の仕事が落ち葉のように

・・・ひらひら踊る ひらひら踊る・・・

 

(・・・変な詩・・・。)

 

最近英語を学んでいることもあって、大好きなこの歌を少し真面目に調べてみました。歌詞をてきとうに訳すと・・・

 

まわる・・・

らせんの中の円のように・・・

車輪のなかの車輪のように・・・

山からの雪玉のように・・・

 

と、意味はよくわからないものの、メロディに合致した回転するイメージが伝わってきました。詩的な歌詞なのだなぁ・・・。

この歌が聞きたくて、ナナ・ムスクーリのCDを買いました。

 

 

●オロチョンパ!

 

youtu.be

 

この曲も最近何気なく聴いて「いいな」と思ったのでした。

もうとにかく気持ちが良い!

歌詞の意味とかわからないけれど、気持ちが良すぎる!聴くだけで体が踊ってしまう・・・。

1991年の曲ということで、わたし19歳か・・・。自分が若い頃に聞いた楽曲・その時代のアレンジことにリズムパートなどにはやっぱり惹かれるものがありそうです。

あとインドネシア語が何気に入っていて「スラマットパギー(おはようございます)」「アパカバール?(お元気?)」という言葉が懐かしかった。「バイク(元気です)」と答えるのですよね・・・。インドネシア育ちのわたしです。

 

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ひとまず、そんなところです。

 

読書録、つけてるつもりでも、ぜんぜんダメだなぁ・・・・反省。

こうして記事にすることで、これからはもっと丁寧に読もうと思わされました。

 

というわけで(どういうわけ?)松岡宮のショップも、どうぞみてやってくださいませ。

 

383.thebase.in

 

 

記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。

 

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二度目の串間の旅のこと(1)【閲覧注意/猫死体】

 

危険」と書こうとして字を間違える・・・。

 

 

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【これまでのあらすじ】

 

独身だった叔父が亡くなり、なぜかわたしが宮崎県串間市の父の実家の後始末をすることになった。

そこには、壊れそうな「母屋」と、そこまで壊れそうではないものの中は荒れ放題の「離れ」があった。

 

第1回の旅のハイライトは、母屋の押し入れにかわいいネコちゃんの亡骸を見つけたことであった。

 

それがあまりに美しく、東京に持って帰りたいと思った・・・そう、叔父の骨をゆうパックで送ったみたいに。

 

・・・おお、なんと美しいネコだ、これはぜひ壁に飾りたいものだ(by 機械伯爵Miya)。

 

猫をお迎えにゆく旅の、始まり、はじまり。

 

【あらすじ おわり】

 

以下の記事の続きです。

ekiin.hatenablog.com

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

・・・猫の亡骸を持ち帰りたい・・・ッ!

 

その計画を事務所の「小さな発表会」で述べたところ、猫を愛し、猫の気持ちがよくわかり、時々猫になる詩友(かつ俳優)のおもとなほさんが、こんなことを言ってくれた・・・

 

・・・ネコはその場で埋葬されたがってるのよ・・・

 

と。

 

twitter.com

 

言われてみればそうだ。わたしはどうしてあんなに猫の亡骸にこだわってしまったのだろう・・・。

 

あの1回目の串間の旅、興奮と果てしない片づけの疲労のさなか、立ち眩みの陽光に包まれ、押し入れのなかに見いだされたその財宝はあまりに美しくみえてしまった。それで、われを失ってしまった。欲望の棒が伸びてしまった。末っ子のわたしの寄る辺なさ。猫好きだった幼少期の自分が大人になった今の自分を支配しはじめ、子供らしい判断を行う。1回目の旅、あれを発見したとき、たしかにあの猫は生き物の死体にはみえず、コチコチと石のように硬く、コンクリートで固められた作りものにしか見えなかった。それならば手元に置きたいという気持ちはずっと残っていたが・・・もし亡骸であったなら、埋葬してさしあげよう。

 

そんな思いを抱えて家に向かった2回めの串間。

 

屋根に穴のあいた母屋で、飾っておいた優勝カップたちは不釣り合いなほど金色に光っており、去ったときと同じ輝きを放っていた。

 

しかし、前回、あんなに美しい人形のようにみえた「ネコ形の何か」には、明らかな腐敗がみられた。

 

 

以下、閲覧注意。

 

 

 

 


・・・あれ、こんなに死体っぽかったかしら?

 

・・・やっぱり、もともと生きていた猫だったようだ、この物体は。

・・・埋葬してあげなきゃ。

 

時が流れて庭木のありようも変化していることに気づいた。そして自分の気持ちと風景がリンクしていることにも気づいた。いや、自分の気持ちだけではない。風景は、さまざまにその姿と意味を変え、わたしと交流をしようとしているように感じられた。つまり、この家に存在しこれからわたしが出会ってゆく予定のものは、実は固定しておらず、わたしの心情や動向次第でそれは刻々と変わってゆくように思われたのだ。

 

わたしが疲れていればわたしを楽しませるためのオモチャがおかれ、体力を回復すればそれなりのモノが目の前に現れるというふうに。

 

その考えはいかにも非科学的であるが、そのときのわたしには本当にそんなふうに感じられたのだ。そしてそれは、誰かからのギフトであるのだ。コミュニケーションといってもいいのかもしれない。誰のギフトであるかはわからないが、ともかく誰かが何かを自分に伝えようとして、順次、押し入れや棚にわたし宛の品物を置いてくれているのだと・・・そう思うことで、この理不尽で体力もお金も費やす片づけを納得させようとしていた。

 

崩壊寸前の母屋には、キャットフードの袋が置かれていた。ずいぶん古いものだ。ほんの少し中身が残っていたので、さっきの猫が餓死したわけではないであろうことに、少し、ほっとした。

 

 

母屋のほうのちゃぶ台には、お皿やカップ、お箸やスプーンのほか、スーパーのお惣菜のトレーの山、まだ中身の入っている紙パックの日本酒や、お酒が少し入ったグラスもあった。灰皿には吸い殻も残っており、畳や布団にはタバコで焦げた跡もあった。独身の叔父が飲酒喫煙しながら猫と暮らしていたことがうかがい知れ、しんみりとした・・・

 

しかし、次の瞬間、紙ごみや木くずでいっぱいのちゃぶ台の下に、見つけてしまった。

 

 

もう一匹、猫の亡骸を見つけてしまった・・・。

 

 

閲覧注意・・・。

 

 

 

 

・・・これはもう、なんというか、骨だな・・・

・・・どうもこの家には、猫が数多く出入りしていたらしい・・・

いや、今もか?

 

あわてて360度見渡す。

もしかしたらここは、猫だらけの家なのではないか?

もしや、ここは、生きている猫と死んでいる猫でいっぱいの母屋・・・?

 

「ともかく供養しないといけない。」

誰かがわたしにそう言って促す。

「はい!がんばりますぅ!」

誰からも頼りにされることが無かった末っ子が、実力以上のタスクを行おうと気張る。

 

何しろいま、この空間で生きているヒトは、わたししかいないのだから・・・。

 

そこで、さきほどのミイラと、この亡骸を、お盆のようなものに並べて載せ、落ちていた菊の花も添えた。

 

閲覧注意。

 

 

やすらかに・・・・。

 

 

ひとまず仏壇のあたりにお盆を置き、手を合わせようと仏壇の前にまわった・・・

 

その時!

 

自分の体が落ちた!

 

 

 

? ? ?

 

・・・いったい何が起きたのか、すぐにはわからなかった。

 

要するに畳の床が抜けたのであった。

 

1階だったのでケガはなかったが、家の床が落ちることがあるのかと・・・精神的に衝撃を受けた。

床下まで突き抜けた自分の身が気づけば両手をあげてバンザイをしている。背の低い自分の腰から下が何か別のものに包まれている。

あわてて横に走る支柱に重心をかけ、よいしょっと上がった。自分の髪やコートは、何かよくわからない畳の屑やホコリやチリに包まれていた。

 


しみじみ眺めると、壊れかけのこの母屋の、とくに仏壇周辺の畳の傷みがひどい。畳に暖房器具などが穴をあけていた・・・そしてわたしの体重がまたひとつ穴を増やしてしまった。

 

だが、このときは怖さ半分、好奇心半分でもあった。

奥の押し入れに何が入っているかをまだチェックしていないので、とくに父や祖父母、先祖につながるような資料があれば取っておきたいと思い、今度は落ちないように横に組まれた柱のラインをおそるおそる伝って、奥まで行った。平均台の競技をしているようだ。

 

 

 

奥にはよくわからない小さな空間があり(上の写真はその空間を外からみたところ)、ここにあったのはトイレかなと思ったそうではなかった。押し入れのようなところには大きな箱がいくつかあった。どうしてこの母屋にはトイレが無いのだろうと不思議に思いつつ、その箱を慎重に開けてみたところ、そこに入っていたのは、巨大な提灯と、お盆に使う灯篭であった。

 

祖父か誰かのお葬式に用いたものであろうか?とにかく巨大な提灯で、何か文字が書いてある。

 

キッチンに向かう棚にぶら下げてみた。

 

戒名のようだが、祖父の戒名とは異なっており、結局誰のための提灯であるかはわからなかった。

 

ふと思い出した。

祖父の葬式でここに来た幼い我々。わけもわからず、仏壇からおばけが出そうだと我々兄姉ははしゃいで川の字になって寝たのだが、それはこの仏壇前の空間、そう、いまわたしがズボッと落っこちた場所なのだ。

 

昭和54年の祖父の葬式は人が多く集まり、子供心にも盛大に行われたお葬式であることがわかった。

 

一方、叔父の晩年はどうだろう。

月下独酌。叔父はこの壊れかけの家で酒とたばこをたしなみながら猫を相手に夜を数えていたようだった。やがて認知症を発症し、地域や役所や福祉制度に助けられ、施設や病院を転々としながら、誰もお見舞いに行くこともなく亡くなった。火葬などは天涯孤独な方のために特別にお安くしてくれたそうだが、成年後見人さんは立ち会ってくれたのだろうか。成年後見人さんは、わたしのことを、「こうして気にかけて、わざわざ来てくれる親族の方がいて、松岡さんも草葉の陰で喜んでおられることでしょう」と言ってくれた。しかしいずれにしても、叔父はひっそり逝去し、お葬式も行われず、寂しい晩年であった。

 

ーどうして、盛大に見送ってもらえる方と、そうでない方が、いるのだろうー

 

その差は、人徳や能力ではなく、単に生まれた時代や環境に左右されるのではないかと感じられた。人にはタイミングや運・不運があるのだなと思う。

 

離れていたから無責任なことも言えるが、わたしはやっぱり叔父のことが好きだった。

 

わたしと同じく末っ子で猫好き、穏やかで心が優しく、祖母の手紙によれば祖母を心配させた頼りなさもあるようで、生涯独身、あまり自営の仕事ではうまくやれなかった(?)ようであったけれど、知的に優れ囲碁の上手かった叔父が、わたしは好きだった。

 

少しいたずら心が生まれ、叔父のために、巨大提灯をぶら下げてみた。

 

盛大な葬式のはじまりだ。

 

 

 

 

知識がなさ過ぎて名前はわからないが、堂々たる羽をもった鳥の絵が描いてあった。キジでいいのか?

 

お経は読めないので自分の歌など歌ってみたりして・・・

 

はい、松岡、唄います!

カシコミ カシコミ・・・それは違~う!

死体のみんな、ゲンキ~?

声が小さいぞ!

 

ルンルンルン・・・

 

これをもって、叔父の葬儀に代えさせていただいた。

はぁはぁ。

2月の南九州は寒すぎず、というよりもはやまぶしいほどの日差しが外には降り注いでいた。宮崎は本当にいいところだ。

だがこの家に一歩入れば、ここは黴臭く、外の世界とは隔絶された閉塞感がある。屋根に穴があき、壁にも穴があき、ドアも壊れて開けっ放しなのに、それは解放感を意味せず、家じゅうを風が渡っても決してさわやかではない空間。猫の死体だらけの空間。住機能が崩壊した空間は、どこか異様な雰囲気を醸し出していた。

独居の人を思うのは誰か。

その思いを受け止めるものは誰か。

猫だけか。

孤独な家にはその方の思いが成仏することなく残され、身体は死んでもその思いは聞こえない声をあげ、目に見えない文字を描き、何かを伝えようとしている。冒頭に出てきた詩友で俳優の「おもとなほ」さんがここにいたら、どんな演劇をしてくれるだろうな・・・床が抜け落ち、屋根に穴が開く芝居小屋で、死体と一緒に即興芝居、ハハハ、楽しいな・・・ハハハ・・・・わたしもだんだん現実感が失われてゆくな・・・この母屋に居続けると、だんだんわたしも透明になってゆき、いろんなものの声が聞こえてくるようになる。

 

成仏しなかった皆さん、猫の皆にゃさん、どうか、どうか、安らかに・・・。

 

その頃、風が強く吹いた。家をガタガタと揺らした。

 

ふと見上げると、ここの天井の板も腐って、落ちそうになっていることに気づく。

 

 

そのとき、はじめて気づいた。

 

ここにいたら危ない。

 

それも誰かのメッセージだった:

 

ここにいたら危ない。出ていけ!

 

・・・前回、はじめてここに来たときは、夢見心地だったね・・・田舎の古い家って素敵だなぁ、昭和だねぇ、演劇的な空間が素敵だって思っていた。

他人事のようにわくわくしたその家が、「自分事」となったとき、自分は家に含まれてしまい、家に食べられてしまう、あちら側に自分を誘い込む魔の家と化す。

 

怖い、と、はじめて思った。

 

 

 

まだ外は明るかったが、母屋を去ることにした。

 

「・・・みんな、みんな、成仏しますように。」

 

さまざまなものに手をあわせ、建物としてはまだマシな、もう一軒の建物(離れ)に向かった。

 

 

(続く)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

◆松岡宮からのお知らせ

 

●8月20日(日)16時~20時 路上作曲高円寺♪

 

今年はじめて、高円寺の「北中夜市」にてCD路上販売&即興歌作りをします。 

 

 

有名な「素人の乱 5号店」などがある、北中通り商店街です。 

うたでつながることができれば幸いです。

 

 

●クロコダイル「ウクレレエイド」 9月4日(月)19時~22時のどこか 

 

原宿クロコダイル「ウクレレエイド」出演することになりました。

MusicCharge 500円+ワンオーダー。

TikTokでバズった戦争関連の唄をメドレーにしようかなと思っています。

お食事もできる、広くてよいお店ですので、お気軽にお立ち寄りくださいね。

 

 

●デザフェス58 11月12日(日)夕方ごろ 

 

 デザインフェスタ、この秋も室内パフォーマンスステージにて出演させていただきます。

3期連続になりますが、いつも多くの反響と売り上げがあり、ありがたいなと思います。

こちらもTikTok系のショートソングメドレーを入れてみようと思っています。

 

 

松岡宮のCDは、Amazon、BASEのほか、メロンブックスさんでも購入できます。

 

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変な手芸品もおいてますのでぜひみてやってくださいね。

 

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作品を買い支えて下さる皆様のおかげで創作を続けることができます。

日頃の応援に感謝申し上げます。

 

 

記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です

 

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二度目の都井岬(都井岬灯台の灯台守)

 

闇の世界で、貴重な光を守る人。

 

灯台守」という言葉には、なんともいえない郷愁と温かみを感じる。

 

都井岬灯台のなかの小さな展示室に「灯台を守る人々」という文章が掲示されていたので引用する。

 

 海に生きるすべての人を見守る灯台

 かつて、この大切な灯台を管理する職員は、「灯台守」と呼ばれ、灯台やその近くに家族とともに常駐していました。

 灯台は人里離れた岬や孤島などに多く、職員とその家族はきびしい環境の中で、あらゆる不便な生活に耐えながら、灯台の灯りを灯し続けていました。

 

 

人里離れた岬や孤島で 灯台の灯りを灯し続けるひと・・・。

 

灯台守の生活のすべてが灯台を守ることにつながっていることが理解できた。

そして、もう居ないということも知った。

 

 

灯台についてまったく何も知らなかったが、図書館から貰ってきた「灯台ミニガイド北海道編(小山心平編著、1995年、さっぽろ文化企画)」という本を読み、一般的な灯台についての知識を得た。

例えば、「2)灯台の生いたち」というページによれば、灯台の起源は紀元前279年にエジプトのアレキサンドリア港に建てられたファロス灯台であり、日本では明治初期に作られた神奈川県の観音埼灯台が最初の洋式の灯台だそうである。何でもそうかもしれないが、灯台の歴史も日本の近代化とリンクしている。

同じ本の「4)灯台の働き」では、「灯台は船が正しい航路で安全に進むための目印である」と書いてあり、改めて灯台の果たす役割の重さを知る。

 

夜闇にくろぐろと波打つ湾があり、航路をたどる船がある。そして、その船を導くものが灯台の光。

光というものは、人のこころを安心させてくれる。

 

なんてありがたいもの、光。

 

だが、四方八方から強烈な光を浴びせてくる不夜城の都会では、灯台のあかりに気づくことはない。それは、闇の中で目をこらしたときに、あるいは瞳を閉じて気持ちを集中させたときに、ぼんやり浮かんでくるものである。その灯りは、黒潮に迷う小舟のような自分の精神を、安全な方向に導いてくれる。

トビウオの群れがきらり、とても自由に舞うのをうらやましく見る。

 

40Km以上先まで届く光を放つひと。わたしのなかにも灯台守がいる。

 

 

「いま、串間に向かってるところだよ」と親友Aちゃんに連絡したら、「串間は奇跡的に原発を追い返したところ」と教えてくれた。

 

調べてみると、90年代に串間原発の構想が現実化を帯び、賛成派も反対派もおり拮抗し、その意思を問う住民投票も予定されていたが、その直前に3.11が起きて住民投票は中止となり、事実上、原発は来ないということになったようである。

 
 
2度目の串間の旅。
また都井岬に行こう。串間温泉にも立ち寄ろう。
欲張りな計画を立てて駅まで向かった。
 
串間のコミュニティバス「よかバス」は小さなオレンジ色の車だった。乗客はわたしひとり。1日乗り放題(400円)の切符を見せて乗り込み、シートベルトを締める。
 
工事中の駅前広場から出発したバスはすぐに左折し、立ちはだかる山のほうへと向かった。川を渡るとき水面に照り返していた2月の太陽のまぶしさが、旅に疲れた自分にエネルギーを注いでくれた。
 
ところで、このバスに乗っているのは自分だけであり、観光客の姿をほどんとみることは無かった。いつもわたしは「CDが売れなくて(;;)」と嘆いているが、お客になるというのはなかなか大変なことだと思う。自分に何らかの余裕がないと、お客になることはできにくいことなのだ。だからこそ、自分はよい客になりたい・・・と思う・・・正直なところ、自分はあまりお金や体力に余裕があるわけでもなく、どこに行っても観光を熱心にするほうではないのだが・・・観光地のためになるのであれば観光めぐりをするのは良いことなのだ・・・旅行支援の機運が高まる2023年初頭、そんなことを思いつつ、都井岬に行く途中にある「串間温泉 いこいの里」に立ち寄ることにした。
 

 

広々とした平地に建つ立派な施設で、入浴代は500円と手ごろ。

バスタオルを借りて、「ミストサウナ室」があるほうに入った。かなり広さがあるが薄暗く、大浴場のほかに電気風呂や寝そべることのできるお風呂、サウナ室もあるようだ。

 
しゃるるらら・・・しゃるるらら・・・
チチッ。
 
ガラス窓の向こうに木々の茂りが幾重にも折り重なり、風にたなびいている。
ときおり鳥が飛んで何かをついばむ。
串間温泉のこの空間で聞こえるのは水流音。
誰もいないのかと思いきや、大浴場の霧の向こうに女性の顔がふいに浮かんでびっくりした。恍惚の表情を浮かべた女性。ミストに包まれたその空間には2~3名ほどいたが、串間の人はもの静かなのか(?)知り合いどうしのようであったがあまり話し声は聞こえない。
 
わたしは空気中を泳ぐ魚になり、薄暗いミストの海のなかを、灯りを頼りにそれぞれの浴槽にゆっくりと浸かった。ほどよい熱さの温泉は気苦労の多い昨今の心身を癒してくれた。
 
 
施設の玄関の池にはたくさんの鯉が泳いでいた。
カツン、カツンと音を立てるわたしの靴音は彼らに何かのサインを与えたようで、ウゾウゾと集っては口を開いてきた。
池の小さな空間に身を固め、押すな押すなと押し寄せる鯉たち、大きく口をあけて水を吐き出し、さあ餌ください、さあ餌くださいと、オペラント条件づけの大合唱をはじめる。人間社会のなかで育って適応した魚たちのウゾウゾ。そんな鯉の期待に対し、何も差し出せるものは無かった。
 
だけどわたしも同じなのよ、餌がほしいときは身をよじらせてただ口をあけるしかないのよ。
 
 
温泉でスッキリしたあとは、ふたたび「よかバス」に乗り、都井岬へと向かった。
 
前回は新しい施設「パカラパカ」で降りたが、今回は終点の都井岬灯台まで行ってみた。
 
ここは、全国でも16か所しかない、登れる灯台である。光会のウェブサイトが参考になった。
 
 

 
 
白亜の灯台は、洋風でハイカラな雰囲気。
もじゃもじゃと茂るソテツの樹に囲まれ、南国ムードを醸し出していた。
 
受付の方に300円を払う。お客はわたしひとりだ。ソテツの歓迎を受けながら、中央の階段を登り、光のもとへ。
 
カツン、カツン・・・
 
天然のリヴァーブだ、かつん、かつん・・・
 
らせん階段を昇れば強烈な足音の反響が薄いコートを包み込み、足音ひとつごとにこの身は天空の光に近づきつつあった。
 

空へと届くきざはしを、無心になって歩みゆく靴。

 

ほどなく到着した展望台から、日向灘が見えた。

 

なんて大きな海。なんて大きな空。

浮かんでみえる船は、海上保安庁の船だろうか。

 日本が四方を海に囲まれた島国であることは、知識として知ってはいても、都民の自分にとってあまり日頃実感していないことであった。しかしこの灯台に立ち海を見渡すと、海はただ広く、陸地のほうが小さく、海岸線は複雑に入り組み、何かがどこかから入ってくることがありうるだろうなと感じられた。

 

日本という国があって自分はその一員であること。国家は日本列島を守っているのだということ。国家というものを地理的観点から意識したのは、はじめてだったかもしれない。
 

 
灯台守は誰ですか
白い制服をまとい
静かに真昼の海をみつめているひとは誰ですか
光をともす可能性だけを制服の内ポケットに隠しながら
日時計になるひとは誰ですか
 
みてください 2月の串間の空の眩しさ
もう春が近いことを教えていますよ
 

 

 
灯台を降りて資料室にも立ち寄った。
冒頭の写真のように、灯台守の存在を改めて知ることができた。
また、都井岬周辺がよい漁場であるということも書いてあった。
 
 
黒潮が北上し東へと向かう海の交差点を、灯台の光が見守っている。
わたしの小舟が心細い旅に出る。
海はあまりにも大きくて、方向を見失ってしまうこともあるが、灯台の光が導いてくれる。トビウオの大群が踊りながらどこかへ向かう。その姿はいかにも自由に思える。
ヒトの足音で集まってくる小さな池の鯉の大群とどっちが幸せだろうと思ったが、無駄な問いであろう。
 

灯台から下をのぞむ。

 

そのあとは、都井岬の中心的な施設「パカラパカ」まで徒歩で下る。舗装された山道を馬糞に気を付けながらテクテクと下り、約20分くらいで到着できた。

 

  

前回来たときよりも、たくさんの馬に出会うことができた。

大きな馬たちに囲まれ、仔馬もむじゃきな姿態で寝ていた。

 

 

馬の、こんなリラックスした姿をみたのは初めて。

ここは馬が住民であり、観光客はいわば、お客様であり、主従でいえば従なのである。

生まれてすぐに立ち上がり歩き出せるというあなたの美しい毛並みに包まれた肉体を、生理的早産と呼ばれ、ただ弱々しく時間をかけて育つヒトが、いまカメラに収めます・・・。

 

 
カシャ、カシャ・・・。
 
・・・無防備に寝そべる仔馬のお尻を撮影していたら、女性の大学生の集団から「写真を撮ってくれませんか?」と言われた。快諾し、上から、下から、仔馬を交えたり、遠景に樹々を入れたりしながら、その集団をいろいろな構図で撮った。
 
若い人は自分とは違って若いなぁと思うのだが、自分も若い時はあんなふうに若かったのだろうか?あんな時代などなかったように思った、馬糞を踏んだ。
しかし馬糞を踏んでも悪臭はなく、馬糞まみれになっても、もはや気にはならなかった。だって自分のなかには、みえない灯台守が住んでいるから。
 

喉が渇いたので、ふだんは飲まない糖分の多そうなジュースを自販機で買って飲んだ。
そしてまた「よかバス」で駅まで向かった。
 
緑濃い風景の小高い丘に風力発電の風車がみえた。

 

知り合いもほとんどいないこの街にいると、自分のなかにエネルギーが生み出されてゆくように感じた。

串間がますます好きになった、そんな小さな旅であった。

 

 

この旅はそんなふうに何事もなく終わったのだが、それからしばらく灯台守の存在が心にあった。

 

40Km以上先まで届く光を放つひと、わたしのなかにも住んでいる、灯台守のイメージ。

灯台守は誰だろう。

 

ずっと、この、自分のなかに強固に存在する、灯台守に対する懐かしいイメージは何だろうと思い続けてきたのだが・・・

 

 

ある日、東京の地下鉄で、それがわかったのだ。

 

 

・・・ これだったんだ。

 

四方八方から強烈な光を浴びせてくる不夜城の都会では、灯台のあかりに気づくことはない。だが、その輝きで迷った小舟を安全なほうへ導いてくれる、そんな光が都会にもあるのだということに、改めて気づくことができた。

 

駅がわたしの「のぼれる灯台」。

 

ぼんやりした頭で日比谷線を降りて、光の差すほうへ、そして地上へと階段を登り、なんとか仕事場に向かうことができた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

◆松岡宮からのお知らせ

 

 

TikTokが・・・はかどっている・・・

 

TikTokをひっそりこっそりやっていましたが、とうとう視聴数1万を超える作品が出ました。

TikTokとしては多いほうでもないのかもしれませんが、作品が多くの方に届いてうれしいです。

 

 

 

●8月20日(日)16時~20時

 

今年はじめて、高円寺の「北中夜市」にてCD路上販売&即興歌作りをします。 

 

 

有名な「素人の乱 5号店」などがある、北中通り商店街です。 

うたでつながることができれば幸いです。

 

 

●クロコダイル「ウクレレエイド」

 9月4日(月)19時~22時のどこか 

 

原宿クロコダイル「ウクレレエイド」出演することになりました。

MusicCharge 500円+ワンオーダー。

 

TikTokでバズった戦争関連の唄をメドレーにしようかなと思っています。

お食事もできる、広くてよいお店ですので、お気軽にお立ち寄りくださいね。

 

 

●デザフェス58

11月12日(日)夕方ごろ 

 

 デザインフェスタ、この秋も室内パフォーマンスステージにて出演させていただきます。

3期連続になりますが、いつも多くの反響と売り上げがあり、ありがたいなと思います。

こちらもTikTok系のショートソングメドレーを入れてみようと思っています。

 

 

松岡宮のCDは、Amazon、BASEのほか、メロンブックスさんでも購入できます。

 

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1859970

 

「ほかの人はこんな商品もチェックしています」がかなり面白いですので、ぜひみてみてくださいませ・・・。

 

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音源の売り上げで創作を続けることができ、いつも応援に感謝しております!

 

 

記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です

  

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一度目の串間の旅のこと(2)【閲覧注意/猫ミイラ】

 

この記事では、44年ぶりに行った串間の旅の、2日目の出来事を描く。

 

前記事「一度目の串間の旅のこと(1)」の続きであるが、創作部分もありすべてが真実ではない。

 

ekiin.hatenablog.com

 

行き帰りの経路のみについての記事はこちらである。

 

ekiin.hatenablog.com

 

 

・・・1日目の夜の英会話は残念ながらキャンセルとした。

 

オンライン英会話はずっと続けていたので強迫的な自分は英語力が落ちるのではないかと不安になったが、隣の宿泊者の気配が届くこんな壁の薄いホテルで英会話が出来るような気がしなかった。

 

だが、この旅のあいだ、不思議なほど気持ちがワクワクしていた。

・・・ここはなんだか素敵な街、わたしをまるごと受け入れてくれそうだ!

そして、実家の世話を任されたような気になり、なんて意義深い旅だろうと感じ入り、大義を得て役立っている!そんな自分に酔っていた・・・

 

・・・誰かがわたしを呼んでいる。

・・・松岡さんに出会いたいよ、見つけてよ、と、この街で、わたしを呼ぶのは、誰・・・?

 

・・・ハイテンションになり、トランクの中から「自撮り棒」を取り出した。

・・・よし、明日は動画を撮ろう!

 

そう思って眠りについた。

 

 

それは2022年の晩秋のこと。

まだまだコロナ禍のなかの旅行にためらいもある時期だった。それゆえに旅行への手厚い公的サービス、具体的には宿泊費の割引や、クーポンがあった。

 
そんなわけで、ホテルのロビーで3000円の旅行支援クーポンを受け取り、おもに都井岬の土産物に使った。
 
1度目の都井岬については、以前の記事に書いた。
 
 
 
さて2日目の朝である。南国・宮崎にしては寒い朝であった。
 
昨夜、大きなショッピングセンターである「ニシムタ」で買った鯖のお刺身と酢の物。ホテルの冷蔵庫に入れておいたが、その温度を下げすぎて凍っていた・・・じゃりじゃりと食べて朝食とする。
 
 
ニュースを見ると、ワールドカップサッカーで勝ったので喜んでいる様子が聞こえた。マスメディアの音はいつも発熱中のように浮遊しており、掌返しで喜ぶことすら予定調和の試し行為のように思えた。情動を左右に揺さぶる情報、酔いやすい自分はなんだか情報の波がしんどくなり、テレビを消した。
 
ネットワークを切れば人間が小さく思えるほどの雄大な山や川が広がり、鳥たちが朝の歌を歌っていた。
 
おはくしー。
 
おはくしー。
 

 

上記「1度目の都井岬」の記事にも書いたが、2日目の朝の大きな仕事は「ゆうパックでお骨を送る」ことである。薄曇りの朝の国道、車輪のあげる砂埃を浴びながら、郵便局が開くのを待つ。すれ違う人は少ないので、自然を挨拶をする。郵便局のガラスに映る自分がみえる。みすぼらしい女がお骨を持って座り込んでいる。

そんな人が珍しかったのか、怪しかったのか?郵便局の方が話しかけてくださった。

その直方体は赤いガムテープでぐるぐる巻きにされ、わたしより先に東京に向かうことになった。

 

 

朝の手続き的なことがあっさり終わり、新しくて立派な「道の駅」で少し休む。

 
舗道では「自転車で日本一周している」らしい自転車があり、乗り手がベンチに腰掛けて何かをモシャモシャ食べていた。自転車の後ろ側には沢山の荷物やネギがみえ、日本一周するときの荷物の多さに驚く。きっと自炊をするのであろう。
 
まだ午前9時台だった。少し観光もしてみたいと思って「よかバス」で都井岬に行ってみたのが上記の記事である。コミュニティバス「よかバス」を使うと、都井岬までお安く行って帰ってくることができる。都井岬では生きている馬を間近で見られて、とても良い体験だった。

 

帰りのバスで道路をふさぐように歩く馬たちの姿が見えてテンションが上がった。

 

「・・・ほら、道路に馬がいるよ。動物好きだったろう・・・。」

 

亡くなったばかりの叔父がわたしに声をかけて指さす。

 

「わぁ。馬さんがたくさんいる。親子かなぁ?親戚かなぁ?」

 

幼いわたしは大はしゃぎ。小さくなる馬の家族をいつまでも見守っている。

馬糞から咲く可憐な花の黄色。

死者はいつでもわたしに優しい。

 

野生馬を堪能したあと、昼には串間駅前に戻ることができた。

 

 

そしてまた、誰もいない父の実家へと向かった。

まだ何も決まっていない。相続をするにあたり、相続人がどのくらい居るのか、万が一、借金があったらどうすればいいのか・・・途方もない道のりに思えたが、少しでも片づけを進めなくてはならない。

 

 

この家には、いずれも小さな平屋建てである「母屋」と「離れ」がある。母屋と離れの双方を行き来しながら、片付けをどうすればいいのか途方に暮れた。

 

母屋は、立派な屋根瓦や外壁に大きなヒビが入っており、建物自体に問題がありそうだった。かつて知的な手紙を残してくれたおばあちゃんがここでご飯を作っていたのかな?と想像させる広い台所は外壁がくずれ、もはや内と外の境界が崩れかけていた。

 

老化とは、劣化とは、道の締まりのなくなること、あるべき境界が崩れることなのかもしれないと思い至る。

 

 

夕食どきで、止まった時計。

 

 

たぶん立派だった食器棚が、中途半端にその窓を開いている。やはり、締まりを、失って・・・。

床に散らばるチリトリや掃除機などの掃除道具が、役目を果たせず無念そうであった。

 

 

一方、叔父が元気な頃に暮らしていたと思われる離れは、まだ建物自体はマシなようであったが・・・中は同じように荒れ放題。

 

印象的だったのは、母屋にも離れにも、からのペットボトルが床を埋め尽くすように捨てられていたことだった。そのそばには、いくつものゴミ袋が中途半端に口をあけており、ゴミ袋の束もあった。

 

 

あとから知ったが、串間市は環境への意識が高く、ゴミの捨て方が(やや)難しいようである(少なくともわたしの住む東京都大田区よりは)。

 

自分でものを考えることが難しくなった叔父が、ゴミ捨てに苦労するようになった、その年月の形跡が、こうして透明な地層を作り上げたのであろう。

捨てようかとも思ったが、自分一人でなんとかできる分量ではなかった。

 

また、離れにあったトイレはあまり近寄りたくない風景を醸し出していた。

 

 

だが、これも、誰かが生きていた証なのだ。生命がそこにあったという印なのだ。

 

トイレのそばにあった本棚には、面白そうな本が並んでいた。新田次郎森村誠一。近所の女性の句集。ナニワ金融道の本。

本自体の傷みも激しいものの、こんな状況でなければ読んでみたいと思う本の数々は、叔父の知性と好奇心を想像させた。

 

 
本を布団の上に広げると、古本屋さんになったようでようでわくわくした。しかしこれじゃあ片づけに来たのじゃなく、散らかしに来たようだなぁと反省しつつ、ここにこういう人がいたという痕跡を残したくなり、本はそのまま広げておくことにした。

 

そういえば父も本が好きで、死んだ後の片づけが大変だったのを覚えていてる(ブックオフに来てもらった)。父は長男であり、貧困のさなか奨学金で高校・大学に行った。そして右肩上がりの時代にサラリーマンとなり、それなりの厚生年金を得ることができた。

叔父は3男、末っ子であり、この家を継いで老両親とともに有限会社を営んでいた。生前、父がよく叔父のことを、「あいつの年金はわずかな国民年金だけだろう」と言っていたのを覚えている。

そんな父の、変な自負心みたいなものが父の子である我々兄姉に乗り移り、我々はどこか叔父のことを、優しいけれど父のように知的で有能ではない、といった目でみていたように思う。

この見方はやがて覆されることになる。

 

それにしても採光の良い家だ。

ガラス窓から晩秋の日差しが優しく降り注ぎ、さらには穴のあいた屋根からも青空がみえ、光のきざはしを作っていた。そのきざはしは抜けた床へとまっすぐに向かうのであった。

 

 
「ギャッ!」
 
段ボールの奥に大きな蜘蛛が動いて、驚いてしまった。蜘蛛のほうも驚いたことであろう。
 
 
生き物は死に絶えたようなこの家にも、少しは生き物がいるのであった。
 

 

窓辺には、カマキリの卵のようなものも見えた。

 

 
生き物はみなこうして、自らが生きた証を次の時代へと残してゆこうとするのであろう・・・そう・・・わたしも・・・
 
ー自撮りでもするかっ!
 
自撮り棒を握りしめ、自分ではなく道路から家の動画を撮っていた。
 
すると、
 
「何してるのー?」
 
と、通りがかった小学生の集団に、からまれた・・・。
そうか、この道は通学路だったか。
 
「自撮り棒?何それー? えー、あっ、映ってる!!」
 
小学生たちがわたしの周りでスマホの画面を観ながら興奮していた。
 
・・・わたしは、小学生なら当然のように自撮り配信してネットで承認欲求を満たしている、そんな文化のうちにあるのだろうと思っていた。しかし(当たり前だが)そんなことはなかった。東京に住む自分に子供がいないから、そんなふうな偏った小学生観を持ってしまったのだろう。
わたしは、こんな知らないおばさんに声をかけて絡んでくる小学生の純朴さに感動してしまった。
 
君らはランドセルを背負った蛾か蝶か・・・。
 
きらきらと眩しく見える。
 
そして、なかなか離れて行かない子供たちと会話をしていたら、坂の上から大人も歩いてきた・・・
 
・・・まずい。このままでは変質者か、空き家に入る泥棒のようではないか・・・。
 
そう思い、とっさに「こんにちはー、わたしはこの家の相続人です。怪しいものではありません」などと、相続人と決まったわけでもないのに言い訳をした。
 
しかし通りがかった人は本当にただ通りがかっただけの人だったようで、「は、はぁ」と困惑しつつ、そのま坂を下りていった。
 
 
子供たちが去ったあと、片づけをしつつ、ゆっくりと動画撮影を行った。
まずは母屋だ。
もう叔父もあまり立ち入らなかったようにみえ、すべてがひっそりと死んでいるような空間。押し入れに段ボールがたくさんあった。
 
それらを引き出してみると、段ボール箱に入っていたものはすべて、囲碁の表彰カップや楯だった。
 
きれい。

 

きらきら輝く、カップカップ、盾、盾。

 
本当にたくさんの盾や賞状。
 
劣化を免れたそれらは金色に輝き続けており、非常に場違いな雰囲気を醸し出していたが、南国の日差しを受けて誇らしそうに深呼吸をしていた。
 
「栄光です。いえ、光栄です。見つけてくれて、ありがとう。」
 
まるで、そう言っているかのようだ。
 

 

父も囲碁が強かったが、叔父も相当に強かったようで、次から次へと表彰状や盾が出てきた。金箔がまばゆい巨大な盾、シルバーの重厚な盾、赤と白の目出度いリボン、それらは叔父の知性をあらわし、叔父の栄光を教えてくれるものであった。
 
叔父はこれほどまでに知性にすぐれ偉大な人間であったのだ。
叔父は素晴らしい人であった。
 
手を合わせつつ、ふと、くだらないことを思いついた。
 
ー畳が腐って抜けた床の穴を、このカップ類で埋めたら面白いのではー
 
もはや誰も来ないであろう家のなかで、その試みは誰も見ないアートのようなものであった。
 
だが、この家に来て心を揺さぶられ、たぶんブログに書くであろうことを予見したわたしは、床の穴に沿って、そっと表彰カップ類を並べていった。
 

 
ギシギシ。
ギシギシ。
音を立て、家がまた一歩崩壊へと近づいていった。
 
空気中を舞いきらきらと輝くのは、埃か、誇りか、言霊か。
光のきざはしをのぼりゆくのは精霊か。
床に穴のあいた部分はちょうど屋根に穴が開いた部分でもあり、優勝カップや表彰状に日差しが注ぎ込む。
 
ーみんな、見てください、こんなに囲碁の得意な叔父さんが生を全うしましたよー
 
 
そして、押し入れのなかのダンボールもあと少しだと思ったときだった。
 
穏やかな冬の日差しが差し込む押し入れのなかに、あやしい影を見つけた。
 
・・・なんか、見えるぞ・・・
・・・もしかして・・・
 

 

手前に囲碁の表彰状、そして、その向こう、箱の中に頭を入れているようにみえるものは・・・

 

もしかして・・・もしかして・・・

 

そう、その、「もしかして」であった。

 

 

 

【以下、閲覧注意】

 

 

 

 

・・・猫・・・だ・・・よね?
 
 
 

 
そう、それは、猫の亡骸だだった。
 
いや、本物の猫ではないかもしれない・・・剥製?置物?ぬいぐるみ?
 
・・・見つけてしまったからには仕方がない。押し入れの毛布でくるみながら、それをゆっくりと引き出して、机の上に置いた。
 
コロッ。
 
それはすっかりカチカチに渇いており、石膏で作ったトルソーのようであった。たたくとコンコンと音がした。悪臭はしない。
 

 
「おはしで ネコを たたく」コンコン。
「ネコで 机を たたく」コンコン。
まるで失語症検査のように、猫をいじる。
 
苦悶の表情を浮かべるでもなく穏やかにお昼寝をしているかのような表情のネコで、わたしはこの「置物」にすぐに好意をもった。そして、無駄な肉のない、スリムで硬いそれを、くるっと裏返したり、持ち運んでみたり、話しかけてみたり、動画撮影をしてみたりした。
 
やっぱり、オモチャみたいだなぁ・・・。海外のお土産ものかしら。
 
ふっと、ある可能性に、思い至る。
 
これは、叔父からのギフトなのだ。優しい叔父がわたしに気を使ってプレゼントしてくれたのだ。
 
「・・・ほら、末っ子のお前はネコが好きだっただろう・・・せっかく宮崎まで来てくれたから、叔父さんから、これ、プレゼントだよ・・・」
 
・・ああ、叔父さん!!そんなに気を使わなくてもいいのに・・・(^^;)
 
・・・だけど、ありがとう。とっても、とっても、気に入りました!
 
・・・すでに命なきものの形跡のみに包まれた、いわば絶命の家に居続けると、自分の生命力もすり減ってゆくのであろうが、自覚的には異様にテンションがあがっており、栄光のカップや盾に囲まれながら、声なきものの声を聴いていた。
誰かがわたしを呼んでいた。だからこの街に来た。呼んでいたのはこのネコだったのかもしれない。「わたしはここにいます、わたしを見つけてください」と鳴く猫の声に呼ばれて、わたしはここまで来たのかもしれない。
 
この家は素敵な舞台なのだ、そしてもはや舞台の幕はあがっており、死者によるリアリティーショーが始まっていた。その舞台の俳優でもあり観客でもあるわたしは、演じられている最中の「死をテーマにした舞台」に引き込まれ、その世界に浸っていた。
 
見つけてくれてありがとう。ネコがそう言った。
いえいえ、どういたしまして。わたしは答えた。そしてカチカチに折れている耳を撫でた。
 
それにしても、なんて綺麗な猫だろう。腐敗もなく、ウジ虫が湧いているわけではない。肋骨がリズミックに配置されている。その細い胴体には臓器を持っていたという気配もない。この猫は、やはり、剥製というか、飾り物なのではないか、このときは本当にそんなふうに思っていた。
 
顔を見ると、目玉が落ちた形跡がある。
 
 
・・・人形にしてはリアルだなぁ・・・目玉を落とし視神経(?)まで造作する人形があるだろうか・・・お茶目だな・・・。
 
・・・この時点では、こんなに美しい亡骸があるはずない、これは作り物だと思い込んでいた、思い込もうとしていた。
 
ー次に来たときには、このネコちゃんのおもちゃ、おうちに持って帰るぅー
 
そう誓って、家をあとにした。
 
ーうん、待ってるよー
 
ネコがそう返事をしたような気がした・・・。
 
・・・またね。

 
帰り際、外から家を眺めてみた。
 
 
裏側からみると、木々が壊れかけの母屋を覆いつくしていた。
すべては太陽の導きのまま、自然の動きのままに育つ枝や葉っぱはむしろ、主を失った家を崩壊から守っているようにも見えた。
 
そろそろ帰らなくてはならない。
 
この時点で相続について何も決まっていなかったが、ともかくまたこの家に来ることになるであろうと思った。
 
ーそう、あの、素敵な剥製を東京にお迎えするために。
可愛いネコちゃん、かならず、お迎えにきますからー
 
そうして家をあとにし、不通の日南線代行バスで乗り継ぎながら、宮崎空港へと向かった。
 
 
帰路については以下の記事のとおりである。
 
 
いちおう予約を入れていた英会話は、この夜もキャンセルすることになった。
 
(つづく)
 

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◆松岡宮からのお知らせ

 

 

メロンブックスでCD販売中です。

 

営業さんがDMを送ってくれたので、なんかフラフラと、音源をメロンブックスさんで取り扱っていただくことになりました。

 

以下、リンクです。

 

melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1859970

 

でもメロンブックスさんって男性向け同人誌に強いようで、自分の音源とか、売れる手だてが分かりません・・・

 

販促をどうしてよいのかわからないのですが・・・クリックだけでも、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

◆8月20日(日)高円寺・北中夜市に出店します。

 

 

CD販売とともに、投げ銭の歌作りブースを出すかな?と思います。

16時~20時、路上です。

たのしみです~。

わいわい。

 

 

 

◆11月12日(日)デザインフェスタ パフォーマンスステージ

 

出演決まりました。こちらも楽しみです。わいわい。

 

 

◆新作です。

 

ポエトリー作品「その嘘を信じることができたなら」公開いたしました。

 

youtu.be

 

脳性まひの障害をもつ宮城永久子さんの詩に、音楽・動画をつけさせていただきました。

ほっとするような優しい音ですので、よかったら聞いてみてください♪

 

見た目にはっきりわかる障害をお持ちの方は、偏見にさらされたり、厳しい視線を浴びたりすることもあるだろうなと思い、わたしも至らない人間ですけど、味方であり続けたいなと思います。

 

わたしなどに作品を預けてくださった永久子さんには心から感謝申し上げます。

宮城さんの本の販売ページはこちらです。

 

www.eterunasha.com

 

◆松岡宮のBASEでも物販しています。

 

383.thebase.in

 

ひとにやさしい、小さな再生工場。

廃材バレッタがなかなかイケてると思うのですがまだ売れてません・・・。ははは・・・。

 

 

 

記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。

 

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一度目の串間の旅のこと(1)

 

・・・屋根に穴があいている家を、はじめてみた・・・。

 

 

それはおそらく、令和4年(2022年)9月の台風14号によって破損したものと思われた。宮崎県知事が「まずは命を守ることが最優先です。今いる場所の安全性に不安がある場合は、ためらわずに避難してください。」とコメントを残していた、その猛烈な台風により、もう誰も住んでいない古い家が悲鳴をあげて傷つき、倒れそうになっていたに違いない。だが、わたしは東京におり、その台風がそれほどひどかったことを知らなかった。

 

この猛烈な台風は、日南線「南郷~志布志」間の運行中止(代行バスによる運輸の開始)を残した。

そのことは、台風から2か月後の令和4年(2022年)11月末に、わたしが44年ぶりに串間に行くにあたり、どのような経路で行くかを戸惑わせることになった。

 

 

 

・・・そう、44年ぶり。

串間に最後に行ったのは祖父の葬式であった。

自分が7歳、昭和54年のことだ。

小さかったし、離れて暮らしていたから、祖父のことは写真でしか記憶にない。

 

 

お父さんの実家。

平屋の小さな家だったというおぼろげな記憶。

畳に寝そべって「松本零士大全集」を熟読しながら、「仏壇に供えられたご飯が減ってるよ!」などと姉とはしゃいだ。仏壇はとても怖かったけれどスペースもないので仏壇のそばにお布団を引いて家族で寝そべった。
 
見上げた天井には、もちろん穴はあいていなかった。

 

しめやかなお葬式の意味など、子供にはわからない。「お葬式じゃなかったら、遊園地に連れて行ってあげたいけどねぇ・・・」優しい叔父がそんなことを言ってくれた。

今すぐ連れて行ってくれたらいいのに。

その時はそんなことを考えていた。

 

叔父は父の下の弟で、末っ子であった。ずっと独身で、祖父母亡きあとは一人暮らしをしていたようであった。晩年は年齢もあって病気がちとなり、病院や施設への入退院を繰り返した。そんな時、いつもわたしが家族連絡先となった。

 

「・・・実際に現地に行けなくとも、良好な関係を持ち続ける親族がいることは福祉の助けになる・・・」「・・・関心を寄せる親族がいることは、その方がよいケアを受けることにも役立つ・・・」

 

・・・どこからかそんなことを聞いて、自分など非力であるのに、ついつい返信してしまったのだ、そう、あの、役所からの、扶養照会の書類に・・・5年くらい前のことだ。

 

「(叔父は)自分のことができなくなっているので・・・」

 

役所の方が言葉を選んでそう伝えてくれたこともあった。それからしばらくたち、「措置制度」により施設に入ることになった。ふだん自分が講義をしている福祉の「措置から契約へ」の「措置」か・・と感慨深く思った。

 

この街では、介護福祉に携わる人々がずいぶん親切なんだな・・・。

 

そんな印象は、今も変わっていない。

 

 

 

叔父がその病状に応じて施設と病院を行き来するたびに書類は届き、わたしが何らかのサインをした。親族連絡先。リハビリ計画書。身元保証人。転倒予防の確認書。サイン。サイン。なかには「支払い出来ない場合には数十万円を上限としてわたしが支払います」といった旨の病院からの書類もあった。それには警戒をおぼえ、電話をしたうえでサインしなかった。施設や病院からしばしば電話も届き、その多さにうんざりしてぞんざいな対応を取ってしまったこともあった。

 

2022年の春頃から叔父は意識を失うことがあり、その都度病院から連絡が来た。夏頃には市の方から成年後見人をつけてくれたという連絡があり、その後見人さんと、電話でなんどか話をした。

病院のドクターから電話が来る。全身状態が悪く、冠動脈も詰まっており、いつ急変してもおかしくはない。もしものときに、確認ですが、しない、しない・・・それでいいでしょうか・・・と、確認のお電話もきた。

こんなに離れている身では、「お任せします」と言うほかない。

 

山間部に実りの秋が来る。

西の方から台風が来る。

 

台風14号が来たとき、叔父はまだ存命であった。

 

古い平屋が台風に巻かれて、ひと瓦、ふた瓦、吹き飛ばされてゆく。屋根に穴があき室内を滝にする。翌朝、穴の開いた天井から青空がのぞく。長い歴史のなかで多くの人を寝かせてきた畳の床が腐って抜け落ちる。心筋が梗塞する。家が朽ち果て火葬に向かって歩みだす。時の流れは誰にも止めることができない、だから。

 

 

 

叔父の訃報を受け、あわててスケジューリングした2022年11月、44年ぶりの串間への旅が始まった。

 

その時は鹿児島空港を使うという考えがなく、宮崎空港から入り日南線代行バスを使って串間までなんとか到着した。

 

行き帰り、および都井岬への旅については、以下の記事に書いた。

 

ekiin.hatenablog.com

 
 
 
この記事では、旅の主目的である、叔父亡きあとの諸々の手続きについて記すが、すべてが真実とは限らないことを申し添えておく。
 
 
1日目は成年後見人さん(以下、後見人さん)とお会いしていろいろな手続きを行った。この方は本当に有能な方で、わたしなど福祉制度についてまだまだ不勉強だなぁと実感するくらい、さまざまな制度や書類を的確に紹介してくれた。
たとえば火葬許可書と葬祭費の受け取り、たとえば過誤納付金。相続人代表の手続き、銀行とのやり取りの手配。司法書士の紹介。
そしてお骨の保管。
 
お骨はK病院に安置してくださったそうで、そこまで案内してくれた。
南国らしく木々が鬱蒼と茂るK病院の入り口付近は、(そのころ都内ではすでに薄らぎつつあった)新型コロナウィルスに対する際立った警戒がみられた。感染者数が少ないとかえって警戒心も増すのであろうか。
「このたびは、お世話になりました。」
K病院のご厚意で丁寧に祭壇のようなところに置かれた箱を受け取る。
 
白い布に包まれた叔父のお骨は翌日「ゆうパック」で大田区へと送られ・・・
いま、わたしの隣にいる(!)。
 

 

 
ここに来た理由の一つに、亡き父に関する写真や記録があれば保存したいと思ったことがあった。
 
その旨を後見人さんに告げ、家のカギがあればお預かりしたいとお伝えしてあった。
 
後見人さんも、まだ家には行ったことがないとのことだったので、ともかく行ってみることにした。高台にある市役所でさまざまな用事を済ませたあと、駐車場の坂を下り、住宅地の間をぬって歩く。
 
冬の宮崎は過ごしやすい。
遅く訪れる夕暮れの雲が複雑な抽象画を描いて変化しづけてゆく。
この街は低い建物ばかりで空が大きい。
また、人が少なく、とても静かだ。
 
家には、すぐに到着できた。
 
ブロック塀の向こうに小さな建物が左右に1棟ずつあるのが見えた。
 
敷地内に入ると、奥に庭があり、木々が野放図に茂っていた。
 
手前にはなぜか壊れた洗濯機。そのうえになぜか、オレンジ色の果実。
 

 
左の建物(母屋)は見るからに状態が悪そうであった。壁の一部も郵便受けも壊れ、ドアのガラスが割れており、玄関の扉も半開きのまま動かない状態であった。
 
・・・これなら、カギを心配する必要もなかったな・・・。
 
玄関先で後見人さんは帰られ、ひとりでゆっくりこの家のもつ雰囲気を楽しむことになった。 
 
半分開きっぱなしの扉に身を滑らせると、中の様子が見える・・・
 
・・・ああ・・・・
 
・・・床に穴があいている家を、はじめてみた・・・

 

 

 

すべてが古びた室内には、物品が散乱しているのがみえた。

キッチンの床にはペットボトルが絨毯のように敷き詰められ、蜘蛛の巣が風にきらめいていた。流し台やキッチンのあちこちに無数の汚れた食器がみえた。遠くに食器棚や冷蔵庫も見えたが、床に積まれた物品や床の抜けた穴のために近寄ることは難しそうである。

 

 

 

袋、ふくろ、バケツ、ホース、シャベル、くず、衣類、扇風機の羽根、ゴム手袋、ペットボトル、袋、よくわからない紙、なんだかわからない袋、調味料、くず、フライパン、食品トレー、なべぶた、食器、開封されたキャットフードの袋、新聞、なんだかわからない何か・・・

 

(ねえみんな、昔は名のある”何か”だったの?)

 

そして、囲碁の賞状と盾・・・。

 

英語で言えばStill. 数年間人が入らなかった家の空間は、何もかもが死に絶えた空間のようにみえ、虫すらもそれほど多いわけではなかった。

靴のままですみません、と言いながら、蜘蛛の巣を払い、床の穴に落ちないようにおそるおそる奥へと入ると、おぼろげな記憶がよみがえってきた。

 
・・・そうだ、あそこに仏壇があった・・・。
 
 
 
その仏壇の上の天井も落ちて、仏壇自体も破損しており、周辺には柔らかな線香が散らばっていた。なぜか仏壇まわりの破損がもっともひどいように思われた。
 
多くの人がここにまつられていることを直感的に感じ、手を合わせた。
 
そして、床下に抜け落ちないように畳のヘリを踏みしめながらそっと仏壇に近づくと、その中に写真の額が3枚あった。
 
祖父、祖母、そして見慣れぬ兵隊の写真。
 
これだ、これは絶対持ち帰らねばならぬと思い、持ち帰る荷物にそれらを入れたが、額の裏側の板からよくわからないものがパラパラと落ち、手やカバンを汚した。
それから仏壇の近辺にアルバムも見つけ、それらも持ち帰る荷物に入れた。アルバムもやはり、動かすたびに何かがボロボロと落ちていった。

 

・・・どこか寂しそうな表情の、この兵隊は誰なのだろう。

 

この時点で、わたしは松岡家のことをあまりよくわかっていなかった。ただ、亡き父が、「先祖には村長もいた」と言っていたことが、おぼろげに頭に残っていた・・・。

 

天然のあかりは若干の赤みを帯びながら室内をだんだんと暗くしていった。

”死者は 夜 踊る。”

崩壊寸前のこの家に、なぜか心惹かれる自分がいた。

 

ここで独り芝居でもやったら楽しかろうな・・・そんなことを夢想した。

 

Stillのなかに何かがいて、「・・・ここまで来てくれてありがとう・・・貴女を喜ばせてあげたい・・・」とそんなふうに、見えないものがわたしを楽しませようとしてくれている。

 

割れた扉から外の空気が入り込み、どこかの隙間から出て行った。

もっとこの家のことを知りたいと思った。

 

((2)につづく)

 

 

 

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◆松岡宮からのお知らせ

 

こんにちは。みなさまお元気ですか、わたしは元気に働いて、うたづくりしています。

 

BandCampにもいろいろ新作を出しています。

 

miyamatsuoka.bandcamp.com

 

BandCampは無料で聴けて歌詞も見やすいのがよいですね。

よかったら見てやってください。

 

 

7月9日(日)、蒲田アプリコ「NO WAY MANIACS」にブース(kamataterakoya antique)を出します。

 

 

CD販売がメインですが、この記事でも書きましたように、空き家となった松岡家から見つけ出された逸品を販売します。楽しい手作り品も販売します。

 

大田区民は無料、その他は500円の入場チャージがかかりますが、招待券もあるのでお問合せください。

 

来てみると楽しくて 、おみやげいっぱいだと思います☆彡

ぜひお立ち寄りくださいね。

 

 

 また、メロンブックス様でも松岡宮のCD販売しています☆彡

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1859970

 

面白いからクリックしてみてくださいね。

 

 

はてなブログが記事単位で有料にできるようになりましたね。

 

いろいろ考え、一部の過去記事の一部を有料にしてみました。今のところ、新しい記事は今まで通り無料公開しようかと思っています。

 

全ての記事は今まで通り基本的に無料公開にして、最後に投げ銭機能を入れておこうと思います。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

記事はこれで終わりです。以下は投げ銭です。

 

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